たまに、自分以外の人間の人生の中に飛び込みたくて仕方なくなる。
それが作り物であっても、そうでなくても、どちらでもいい。著名であってもそうでなくてもいい。自分以外の誰かの人生を。そう自分の中の何かが叫ぶ。
なんでそんなこと思うのだろう、と今朝そのことについてぼんやりと考えていた時、ふと、自分という人間から他の人間に味変をしたいのかもしれないと思った。
「生まれ変わったら、何になりたいですか?」という質問に「生まれ変わってもまた自分に生まれ変わりたい」と答えている人がいる。私はどうだろう。考えてみる。女であることにめちゃくちゃ不満があるわけではないので来世女に生まれますと言われても「はぁ、そうですか」で済ませられる。が、最近は見ているアニメの影響もあり、「男同士の友情(体育会系のものだが)」に少し憧れを抱いているので、そういったものを経験するために男に生まれるのもいいなとは思う。働くのは好きじゃないからいいところの飼い犬になって撫でくりまわされたい気持ちもあるし、けれど自由に立ち回れないというのはなんだかなぁ、とも思う。うーん。「同じ人間に生まれ変わりますよ」と言われたら「はぁ、そうですか」で受け入れられはするものの、別に希望はしないかもしれない。と、そんな感じだなと思った。
はっきり言ってどっちつかずな自分だが、それでも自分という人間に飽きた気になる時はある。同じ食べ物ばかり食べていれば別のものが食べたくなるのと同程度のものではあるが、とはいえ現状自分以外の人間になりたいと思ってパッと変われるわけでもあるまい。そんな時は創作物の世界に飛び込む。ここで大切なのは紙面上か映像か音声か、ようは相手が自分を認識していない状態であることが必須条件。相手が自分という存在を徹底的に知らないと前提で繰り広げられていく形式でないと欲求は満たされない。自分のことは徹底的に無視してほしい。
別に自分のことが嫌いなわけではない。故に正直上記の欲求がどうして起こるのか自分でもわからなかった。が、今この文章を書きながらふと理解できた。自分は自分以外の人間の話を聞きたいのに、対話では常に自分の存在を思い起こされる。それでは意味がない。こっちは誰かの人生に没頭し、自分という存在を忘れた気になりたいのだから。
あぁ、つまり私は聞き手になりたいわけではないのだと気づく。自分以外の人生を摂取したいだけであって、誰かの不平不満自慢話の吐口にされたいわけではないのだ。カウンセラーではなく、傍観者かつ消費者でありたいのだ。あぁ、そうだ。今これを書きながら再び腑に落ちた。心がスッキリした。誰かに悩みを説明していたら整理されて、説明のつもりが自己解決できてしまった時の気持ちです。
だからエッセイが好きだ。そこには著者という人間の第三者の人生が記されている。それ以上もそれ以下もない。語りかけてくるようであってそうではない文章が編まれている。その文章から何かを学んだような気になってもいいし、ただ傍観者としての立ち位置を死守し「へぇ〜この人こんなことしているんだ」と無関心のうちにページをめくってもいい。同じ地球の等しく流れる24時間の時間をどんなふうに使っているのか、それを知れるだけでも楽しいものがある。考えることを放棄して楽しませてくれるのは、普段考えながら生きる人間には程よい休息を与えてくれる。と、そう思う。
同様の理由で映画が好きだ。アニメもドラマも、つまりは創作物が好きだ。受け身でいさせてくれる世界があることに今日も感謝しつつ、大好きなエッセイを読みながらふと思う今日この頃です。