この言葉は、親友から貰った私の宝物。今まで何度思い出したかわからない。そして思い出す度に心が温まり、自然と口角が上がる。
その言葉を貰ったのは、とある日の夜、電話をしている時だった。突発的な電話だったか、きちんと約束をして計画的になされたものだったか今ではもう覚えてないが、話しているうちにふと話題が自分の葬式についての話になった。
「世の中には『自分が死んでも悲しまないでほしい』って言う人いるけど、うちは逆。もう思いっきり悲しんでほしいよ」
ベッドに置いたスマホの横でゴロゴロと寝転がりながら私はそう言った。スウェットを着、風呂上がりの髪は乾かす事を中途半端に怠ったため若干湿っており、1日頑張って生きた体は疲労に重くマットレスに沈んでいた。天井を仰ぎ、変なポーズをとるように体をくねらせながら私は続ける。
「だってさ、悲しまれないって悲しくない?誰も泣いてくれない葬式なんて、まるで自分はいてもいなくても、生きていても死んでても同じですって言われてるみたい。うちはそんなの絶対嫌」
……あまりにも自分勝手すぎる理由なので補足しておくと、人間、ちゃんと自分の気持ちを出し切らないと次には進めない、というのが自論なのである。自論というか、とある本の受け売りである。悲しい時は泣きじゃくり、伏せり、悲しみを悲しみきって、悲しんで悲しんで悲しんで、それでようやく、やっと、なんとか一歩踏み出せるようになる。中途半端に気持ちを押し殺したり、悲しみきれないと、次への一歩を踏み出すことはかなり至難の業、と読んだ本に書いてあって、単純な私は「なるほどなぁ」と思った。
幼少期の私は、癇癪を起こすと外だろうが何だろうがひっくり返って泣き喚く子だったそうだ。(そんな事をした覚えは、ほんの少しもないが)そうしてひとしきり暴れて、泣き喚いて、疲れて寝落ちて、目覚めた時にはスッキリしている。大人になったとて、それは変わらないんじゃないかなと思った。(とはいえおもちゃ売り場でひっくり返って泣き喚く、なんてことができる大人、そうそういないと思うが)
何が言いたいかというと、葬式で思い切り悲しんで、悲しんで悲しんで、悲しみ切って、それから1日でも早く次へ進んでほしいのだ。悲しみは短期決戦でカタをつせてもらいたい。だから葬式では参列者には悲しんでほしい。そういう魂胆である。勿論、自分が死んで悲しいと思ってくれる人間がいないのは本当に悲しいことである、というのも本音だが。
そんな、どう返していいかわからなくなるような話を、夜中の0時半に話された親友を思うと心が痛くなる。けれど、そこで彼女はただ淡々と言い放った。
「安心して。私、ちゃー子さんの葬式で泣き喚くから」
葬式の話をして、「安心して」なんて業者以外に言われる日が来るとは思わなかった。というか、親友に葬式について話して、葬式について言及される日が来るとも思ってなかった。けれど私はこの言葉がとても嬉しかった。だって、いくらでも「そうだね」「確かにね」と言える内容であるわけで。
親友から放たれた言葉は、輝く光のように一瞬でハッとさせられるというよりは、じわじわじわじわ、遅性の薬のように心に沁みた。真昼の空に浮かぶ白い月のような、そんな言葉だった。
親姉弟以外の人間で、自分の葬式で泣き喚いてくれる人間が、この世に一人、確実に存在してくれている。それがどんなに幸せなことか、私は噛み締めずにはいられなかった。ましてや言葉にしてくれるなど。私にとってそれは、「生まれてきてくれてありがとう」に匹敵する言葉だった。
自分の人生は、この言葉のおかげでハッピーエンドが決まったようなものなのである。今もふと脳裏に浮かんできては、私の心を守ってくれている。