昨日今日とゆっくりじっくり向き合いたかったデータがあったのに刺激の多い勉強会と会議の参加で脳の中でしゃべりが止まらないし仕事進んでない焦燥感が大きい。と言語化することで落ち着くのを私は自分で自分に対してずっと行ってきたからよくわかっている。物心ついたころからずっとノートに書きなぐってきたテキストや絵と変わらない。焦燥感を鎮めるために感情を表現に落とし込むか現実を分析するかを手を動かしながら進めることでようやく脳が落ち着いてくるのだ、書き出しきるまでは焦燥感に心臓が脳が炙られじりじりと焦げ付くような感覚にきりきりとしながら書く、描く、手を動かす、指に力が入る、脳の中のものをとにかく吐き出しきらないと私はこのまま焼け死んでしまうのではないかと焦りながら書く、描く、手を動かす、少し手が止まり始めた、指の動きがゆっくりになってくる、呼吸を忘れていたことに気が付く、深呼吸を一つして、句点をうつ。ページをめくる。少し顔を上げて遠くを見る。
デジタルに出力先が移行して、テキストであれば一人でローカルでメモ帳に書くだけでなくオンラインに、手打ちのHTMLやBBSや前略プロフィールやブログやmixiやTwitterやFacebookやMastodonやBluskyやDiscordに移り変わってしずかなインターネットに書き込んでる今だってやってることはなんにも変わんないのだ。ただただ焦燥感を鎮めるために消火器の代わりに言語を私が私に吹き付けている。溢れ出した言葉の量にハッとして、読み返し、少し落ち着く。落ち着け、どうどう、書き出された数分前の私はとても焦っていることを、書き出して落ち着いた数分後の私はよくわかるので、冷静になる。わかる、わかるよ。ああそれちょっとエンジンかけすぎじゃないか、怒りの裏にあるのは悲しみにみえるね、他人のこと気にしすぎじゃないか、コントロールできないことに躍起になるなよ、今できることに限りはあるからな。自分で自分に言い聞かせる。
ADHDの治療薬を飲む前と、後で、焦燥感の炎の大きさや、私が私に話しかける速度や人数が変わった。前はごうごうと燃える大きくて真っ赤かな焦燥感を頭の中で3人の私で慌てながら消火作業にあたっていた。私と私と私がずっとしゃべっていて逆に炎に酸素を送るようなことすらあったけれど、今は脳の中の私はおちついている。もともと一人だったけれど三重奏にブレていただけでしょう。同じことをぐるぐると違う意見かのように矢継ぎ早にあちこちから重ねていただけ。うるさいのは私が私の不安を煽っていたからだった。服薬の力を借りてようやく、落ち着いて私は私の相手をできるようになった。焦燥感の炎は前ほど大きな塊に燃え上がらないし、私を焦がしても燃やし切ることはない、脳が刺激に対して処理をしているだけだと理解している。ただ、ADHDは環境によっては障害じゃないと言うけれど、刺激量が増え出力量も増えた現代社会において、私の脳の焦燥感には服薬は必須だなと思うよ。少なくとも私には。
こんな私の脳の出力の一端を外からみる他の人々は面白がってくれたり、うるさがって遠ざかったり、うらやましがったり、理解できない生命体だとおもったり、そしてごくたまに、ああ自分もそうだという人が現れたりする。そういう人に向けて私はインターネット上のオープンな場所にこうした個人的な言葉の記録を公開している、節がある。私が過去にそうした似た脳の人々の発露の断片に触れて、ほっとしたりうれしくなったときのことを思い出すから。
脳内多動がうるさい時の最終地点は、ここにある。自分の中で閉じてる世界から外につながる出口をみつけると、ひと段落する。自分一人でできることは限られているから、だからこそ私は組織で働くことを選んだし誰かと暮らすことを続けている、でも、自分一人でしかできないこともあるから、こうして今日も脳のログをインターネットに流し込んでいるんだ。こんにちはこんばんはごきげんよう。あなたもお困りですか、私は困りながらも楽しんでいるよ。困りごとがあれば解決策をみつけて、その解決策が普遍性があれば他の人の困りごとも解決できるかもしれないし、同じ解決策が使えなくても、困った状態が不変なものでないと知るだけでも気が楽になるからね。どんなに焦っても眠れば朝が来るから大丈夫。さようならおやすみなさい、また脳が騒がしい時に会いましょうね。