出世第一主義にはうんざりしてるので、働くから稼ぐから素晴らしい、なんて主張からは心の距離をぐっと置くが、食うため生きていくために加えて欲張りたいことがあるので私は明日も働く。通院を調整したり環境を調整するためのコミュニケーションを重ねているときに、たまに、なんでこんなに働いてるんだろう、と、空中から自分で自分を見下ろしている瞬間がある。でもそうした解離に似た空間の漂い含めて、わたしの病気や障害と共に生きていく日々の営みにすぎない、ただそれだけなのだと、ハッとしては現実に戻り続きの手を動かす、そんな毎日。
インターネットのあちこちでは今日も、病気や障害があるから⚪︎⚪︎できない、してはいけない、という他者からのジャッジが飛び交い出会うたびに心がヒュンと冷たくなる。主治医でもないのにそんな判断を外野がするのは、とても無責任だし乱暴だなあ。ジャッジする人々の発言の裏には、「過去に病気や障害をもつ人から私はこんなことをされて傷ついた」という語りが明確なことも多い。それは悲しかったですね、その傷や悲しみそのものは尊重されるべきものであるとともに、ジャッジをぶつけた相手の選択も尊重されるべきものである、ということを、傷が痛む人に直接声をかけるのもまた暴力的であろう画面の向こうの全く知らない他人なのだから、と、声をかける元気もない私は、私自身の傷つきと向き合うことに集中することにする。そんな距離感で最近Xの流れをちょっと読んではBlurskyやDiscordに引っ込んでいる。ユーザー同士の尊重のグラウンドルールが生きていないSNSの限界を感じる。
「◯◯してはいけない」と感じてしまう時、誰が、誰に対して、そう発しているのか、立ち止まって考えたい。無意識の防御的反射なのか、過去に自分が誰かから言われたことなのか、本当に自分はそう願っているのだろうか。
障害や病気をもつ当事者のなかにも「働きたい」「働きたくない」「働くべきでない」「働いてほしくないと思われている」など、さまざまに、自己や同じ病気や属性に対するジャッジが飛び交う。
私はその度に立ち止まって、「ううん、私は、働きたいな」と心の中で呟いて今の自分の気持ちを確かめる。それが私の希望であり、選択することを誰かに咎められたくもない。障害や病気を持ちながら、働くことをテーマに今月の座談会が開催となったのは今の不調期のわたしにとてもタイムリー。
私自身の「働きたい」「働きたくない」は、尊重したい。働きたくない状態に陥ることももちろんある、医療福祉視点で難しい瞬間は、これまでにも、きっとこれからも。でも、病気や障害があるから「働けないけど働きたい」は、改善できる方法をさぐりたい。他人から「働けない」「働きたくない」とジャッジされるのはごめんだ。
自分ではどうしようもできない何かに対して非難されることは、傷つきが生まれる、それは、無自覚に傷ついていたり傷つけられることが日常だと、自覚することで傷口が広がることもある。だから一人ひとり自分の傷つきに向き合えるタイミングで、手当ができるといいな、と、願う。あなたは、どうしたいんだろう。私は、こうしたいんだ、を、小さな声でも、声に出なくても、モヤモヤしながらでも、確かめる場を、わたしは、やってきたい。
ご案内🔈みんなで雑談no.3🌟2024/7/27(土)20-22時 テーマ「働く」
月に一度、第四土曜日の夜に、病気や障害を持ちながら暮らし働くことについて語りたい人々で、オンラインおしゃべりする場をつくっています。7月のテーマは「働く」。おしゃべりしたかったり、聞きたかったりする人は、よかったら遊びに来てくださいね。
詳細は以下より。
https://dandy-petalite-08f.notion.site/no-3-2024-7-27-20-22-2f7ff02e384040a2a5cc732a68d5065c