「能力」で測られがちな私たちの傷つきを癒すには|読書感想:働くということ 「能力主義」を超えて

Maki
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公開:2024/6/19

本を読んでいたら、昔の仕事の記憶が、ぶわっと思い出された。

「人を見極めるなんて、できないよ」

採用の提案やサポートをする仕事をしていたとき、信頼する先輩たちは正直に言っていた。

「ご縁だし、採用して終わり、ではないからね」

私が新卒で入社した会社では、中小企業を顧客に、採用から入社後や既存社員の研修、評価制度など、幅広く手掛けていたので、先輩のその言葉には納得感があるなぁ、と感じていた。

でも、顧客との打ち合わせでは大学偏差値を目安に分けた大学群の話が飛び交い、私の同期入社や後輩たちは高偏差値や有名な大学を卒業してきている。ひとり地方無名大学からインターネットのご縁で入社した私は、「ご縁、なんやろけど、ご縁かあ」と、もんやりもごもごしながら、働いてた。

新人でおのぼりさんの私にはわからないこともたくさんあるから、なぁ、と、しょんぼり背中を丸めながら、見慣れない大学名の偏差値や、人気企業ランキングを眺めて働く日々だった。

数年後、私は診断を受け、わからないことできないことの、原因の背景の一部を知る。そのまた幾年後に、障害者雇用で転職して、今に至る。障害をオープンにして働くことで、大学偏差値や企業ランキングと遠いところにきたかと思いきや、もんやりもごもごは、消えることがない。

IQや偏差値を、能力の証明としてぶつけたくなるときの、きもち

神経発達症(発達障害)の診断を受けている私がよく見聞きする当事者間の言説の一つに、「IQを知っているのは障害者だからだ(=検査を受けたことがあるからだ)」がある。

だからIQが高いことを自慢しても、障害の自白である、という自虐的な意味が込められている。厳密には、検査結果を本人に伝えない(数値ではなく傾向を伝える)ことや、検査がなくとも障害の診断を受けることはあり、当事者だからこそ知っている、とも限らないのだけど。

IQの高低で喜んだりしょげたりする同胞たちと同じく、私も自分の数値に翻弄されることがあり、こうした言説あわせ取り扱いにヒヤヒヤする。偏差値やIQのようなわかりやすい数字だけでなく、◯◯大学出身です、◯◯企業に勤めていました、なんて名乗りは、どこかの誰かよりも、平均よりも上であることの証明であるかのように振り回される。

「障害がある」ことを、自虐にするのも、なんだか、なんだかだ。障害がある=治療やリハビリや支援を受ける必要のある人がいる、といった従来の考え方だけでは、もう考えたくない。少数派を取りこぼしてきた社会の側に障害があり、社会側がその溝を埋める責任がある、という「社会モデル」でも障害を捉えたい。

とはいえどうしてもなんども、したいけどできないことの壁にぶち当たり、落ち込むことは、たくさんある。劣っていると自分で自分をジャッジしたくないから、わかりやすい数値や箱が手元にあったら社会の側に投げつけたくなることもある。だってわかりやすいラベリングが故に、語ることを遮られたり、意見を聞かれないことはよく、よく、あるから。会社の中の新人しかり、障害をもつ者しかり、いろんな、いろんなときに。

私は数値や名称をこのようにとらえているので、「自分は、◯◯だから、優れている」そうやって掲げることは、何かのジャッジに傷ついてきたことへの仕返しに見えるときがある。SNS上の関係性が薄いインスタントな会話では特に顕著だ。

大学名や企業名だけで、その人が何を学んでどう働いてきたかの在り方までみえないのに。診断に関連したIQの検査は限定的かつ、自身の理解や支援のために測られたものなのに。選ばれなかった傷つきから、選ばれるためのアピール。でも、選ばれるって、何にだろう。

「働くということ」のなかで、傷つくには理由がある

こんな私たちが翻弄されているのは、「能力」というものがある、ということにしている、社会規範がつくってるんだな、というのを、本を読み、理解が深まった。

読んだ本:働くということ 「能力主義」を超えて 著者:勅使川原 真衣 集英社文庫

本の中では、プレイングマネジャーが採用で苦戦する、シンさんの事例があった。身近で似た事例があり、身に覚えのあるシチュエーションやフレーズの連続で、はらはらソワソワと読んでいた。

優秀かどうか、能力低い、という話じゃなくて、と、自認が優秀なプレイングマネジャーに懇々と諭していく姿に、テッシーすてき!と、本の向こうから声援をあげながら読んでいた。(ぜひこれは本文で読んでほしい箇所の一つ)

その中でも特に印象的だったのが、業績が良く会社に認められマネジャーになったシンさんの中の、傷つきに触れられる箇所、だった。強く見えても、強く見せざるを得なかった背景がある。だって、人間だもの。会社員の完成形としてこの世に生まれてくるわけじゃないのだから、と、腑に落ちたのだった。

勅使河原さんがシンさんとの対話事例の後の解説で述べていたこの一文にも、私はハッとした。

仕事や人生を戦争に見立ててきたような人からすると物足りない世界観かもしれません

<第二章 三 他者と働くとは エッセンシャルな視座 >

身近なところに闘争心の強い人々はいて、常に戦っているように感じる。まさにシンさんのように。自他の「優秀さ」に敏感で、ときに激戦を繰り広げる。対外的にそうした瞬間が全く必要ないわけでもない、のも、わかるのだけど、仲間なのに刃を向けられる瞬間に、ヒヤリとする。

仕事を戦場にしているのは、そうした個人だろうか?それだけじゃないよなあと、思い当たることは一つある。

採用の仕事や、その後に関わったWEBの仕事は、マーケティングの色が濃かった。マーケティングは軍事用語からきているものも多い。人間を人間扱いせず、ときにゲームの駒のように軽く見積もられ、ときに工業製品のように画一的に取り扱おうとする。

仕事のさまざまは、過去の人間の歴史、戦争や工業化からの知見が積み重なってできていることは確かで、急には切り離せない。だからこそ、無意識に攻撃的な言葉を扱うのではなく、戦場ではないことを意識して言葉を選び取り扱いたい、と、ハッとした一文だった。

「選ばれる」のではなく、互いに出会って、交わっていく

勅使河原さんの語りが心地良いのは経験と知識に裏付けされた「希望」が語られるところだ、と感じる。前向きな気持ちになる。

「働くということ」の希望はまさに、ゆく川の流れのごとく、一つの姿にとらわれない自己と組織が織りなすものであるということではないでしょうか。「絶対にこっちが正しい」「あっちが間違っている」のような思いが微塵でも頭をかすめたら、それは危うきサインです。大の大人が社会や組織で往々にして争う内容はそう変わりません。誰が/どっちが/何が「正しい」のか、の議論が皆大好きですが、そこから抜ける、下りることが何よりも大切なことです

<第三章 三「正しさ」から下りる>

「人を見極めるなんて、できないよ」

という正直な言葉は、採用を支援するプロの台詞としては「正しくない」と感じる人もいるだろう。でも私は、その正しくなさが、好きだ。先輩たちなりの、採用企業や応募者への、丁寧な向き合い方のひとつなんだと、感じる。数値で単純に捉えない、応募者個人と企業の中の人・それぞれの現場との相性を丁寧に見ていく姿勢が、好きで尊敬していた。

そんな企業ばかりでない?そんな現場ばかりではない?求職者視点だと、たくさん履歴書を送っては断られ、社会に居場所なんて無いように感じる瞬間があるから、そんなことがあると信じられないこともある。

でもそれこそシンさんのように、青い鳥を探してる状態の企業に応募してしまっただけかもしれない。こちらが青い鳥を探してることもある。「正しさ」から下りるのはむずかしいし、怖い。正解に見える企業選択や職業選択の話ばかり、見聞きしてしまうと、よけい。

でも、正しくみえるなにかより、たしかな営みと向き合って、交わり変わりゆくことを、模索したいと思う。あなたはどんな人か、私はどんな人で職場はどんなことをしているか、対話から始まる関係性は、確かにどこかにあり、これからつくっていくことができるものだから。

傷つきを癒すために、わたしができること

マーケティング用語があまりにも軍事用語すぎる、ことに関しては、見直していこう、という言説や流れも見かけるようになった。遠くからその流れも参考にしながら、私も身の回りの言葉の取り扱いに気を配る。

例えば。なんとなく「障害」を「障がい」に変換しただけで満足していませんか、「障がい者手帳」までひらがなにひらくの、おっしゃってる理念に照らしても運用的におかしくないですか、といった違和感の指摘は諦めずにしていこう、と本を読み終えて思ったのだった。

言葉にばっかりこだわるのは障害特性だから、なんて軽んじて扱われることを恐れて言葉に出せなかったりもする。もんやりしても、もごもごと口を閉じてしまうのはこういう瞬間。けれど、真摯に向き合う可能性にかける、相手の考えも尊重しながら、対話を重ねていきたいし、私も怖がらずに、変化を楽しんでいきたい。

こうやって自分の手で、小さくもできることを重ね、他者と対話するなかで、互いの違いを喜び合い変化を分かち合う、そうした日々の営みの中で傷つきを癒した先に、ようやく、傷つきの再生産を止めることができるのだろうな。と、希望を信じられる一冊、読めてよかった、会えてよかった。

働く、というのはなにも賃労働に限らないなを、私はインターネットごしでさまざまに交流し変化を体感してきたことと重ねておもう。こうやって本を読んだ感想をインターネットの海に流すのも、いち読者としての、働き。私にできること。

この本が、傷つき力を奪われてきた人や、傷つきながら奪う側になってしまった人の手に、届くことを願っている。

@chan_maki
脳の中が賑やかなときに書き出しにくる。Autisticなじぶんを認めることで心地いい着地を見つけはじめた。多くの困難は不注意と多動にあるADHDer。2024年の目標は「トイレを我慢しない」。視覚過敏が年々強くなるのでサングラスを増やしたい。Bluesky: bsky.app/profile/chanmaki.bsky.social