言葉をそのまま受け取りがちで、人間のことを基本的には信頼している私は、実はあの時に皮肉や悪口を言われてたんだな、と、後から他者から指摘されたり時差で似たシチュエーションに出会ってようやく気がつくことが、よくある。
関西圏に初めて混じった小学生のとき、違う地からきた私の違うイントネーションへのいじりは、はじめは強烈に感じる言葉遣いに目を白黒させていたけれど、半年もすればイジられておいしいなと思えるぐらいに適応してしまっていた。
別の地域で過ごしていた中学生の頃は、クラスメイトから、彼女からすると蔑む意味を強く込めたひどいあだ名で呼ばれていたのだけど、別に気にしてなかった。なぜなら私は、彼女がその言葉を他人に向ける価値観にピンときてなかったから。侮蔑のワードを嬉々として用いる彼女に小さな不快はあれど、あだ名が一つ増えたな、イジリと変わらへんな、ぐらいに受け止めてた。
大人になるにつれ明確な悪口を言われることは少なくなるが、なんだか蔑まれているな、と感じる言葉を投げかけられるときは、ある。それでもやっぱり、なんかピンとこないなあ、と思うことが大半なのだった。
だからこの本のタイトルを知ったとき、読んでみよう、と手に取った。
どうやら私がピンとこなかったのには理由があるらしいぞ、を、ようやく紐解くことができた。
本の中では、人間は基本的に平等であるが、ランクや序列をつくるために悪口を使うことがある、ケース事例によって他にも様々な側面がある、ということが淡々と紐解かれていく。いじめの悪口と、仲のいい相手と冗談である悪口の違いは、関係性やパワーのバランスによる。
どうりでわたしにはピンとこないわけだ、と、納得した。私は他者に対して、特段に仲がいいとは思っていなくても、対等である前提を持っている。なので相手に値踏みされて蔑まれても、それは相手がそうやって私のことをみたいんだな、ということでしかない、と考えているから。
むしろそうせずにはいられない心理状況の相手よりも、落ち着いている私のほうがパワーがあり、悪口が無効化されている、こともあるんだろう。
逆に相手が社会的な権力性を持っていても、私はそれだけで相手を上に置くことはない。なのでときに、上に立ちたい相手からとても嫌われるか好まれるかの二極化する傾向はある。どんなに偉い役職であっても稼いでいても何人も部下がいても、その人自身がどんなことをしてきて何を考えているひとなのか、のほうに興味があるので、パワーを振りかざしたい人にとって私はとてもつまらない話し相手なのだろう。パワーの影響で他者と距離をとられやすいひとには喜ばれるのだけど。
とはいえ、社会の中で生きていくためには、あるとされている上下関係に適応したコミュニケーションをとる必要はある。上座下座の位置なんて会食では気にかけてもメールの宛先やタクシーやエレベーターの中までやってらんないなを思いながら、一通り履修して必要な時に参照しては活用する。
コミュニケーションは、目的ではなく手段だ。生きていくための。というのを、こないだテレビでタコとイカの生態について解説されているのを観ながら、考えていたのだった。
社交的なイカは内向的なイカよりおいしかった、という話をイカ研究者がしていたのを見ながら、帰路で、内向的な人間が社交を発揮することによりこぼれ落ちるものについて考えてたのでリンクした。
社交的なイカで群れのリーダー格がいなくなると、既存のイカの中で社交性を高めリーダーになっていくイカがあるらしい。
そうやってイカが変化する中で増える旨み成分とはべつに減るものもあるのではないか、人間も、とかを、つらつらと。
https://bsky.app/profile/chanmaki.bsky.social/post/3kz2pjzkzek2i
タコ目的で観てたけどイカの話もおもしろかったな番組はここから。
ちなみにタコは基本的にはソロ活動だけど地域によっては村のようにタコが複数生息しているエリアがある。そこのタコは旨み成分が強かったりするのだろうか、も、気になった。
📺カズレーザーと学ぶ|桝太一プレゼン!人生観変わる…タコ&イカ最新研究から読み解くヒトの心
https://tver.jp/episodes/ep40drhusy
https://bsky.app/profile/chanmaki.bsky.social/post/3kz2pnzzsc22g
私はタコという生き物が好きなのだけど、イカのように生きている瞬間があるなを振り返る。コミュニケーションが必要な社会的な生き物としてのニンゲンの宿命でもあり、会社という組織の中で働く会社員として役には立つスキルでもある。
番組の中で研究者が紹介していたとあるイカの集団のネットワーク図のなかでは、多くのイカと交流する社交的なイカもいれば、一対一の関係性しか持たない内向的なイカもいた。そうした内向的なイカのポジションで今の会社に転職してきたのだけれど、長く働くうちの業務の広がりと、管理部門ではたらくが故にネットワークも増えいつのまにか外交的なイカのようになっているのを、ここのところ感じる。でも心の中にはタコがいるので、イカの着ぐるみを着ながら、タコのように悠々と過ごす時間も大切にしたいなと思う。
インターネットが好きなのは、個で漂う感覚を持てることだ。ただSNSはすこし様相がちがう、プラットフォームによる、というのを感じているのだけど、そう思う背景が『悪口ってなんだろう』に解説されていて、腑に落ちた。
オンライン上で何気なく誹謗中傷を書き込む人も、自分をランクが上の権力者だとは思っていないでしょう。むしろ、目立っている著名人と比べて、自分は弱者であり、発言に大した効果があるはずがない、と思っているかもしれません。しかし、誹謗中傷が完全にスルーされてしまうなら、それは「やってもいい」というルールを作り出し、間接的にですが権力を持つことがあります。
先生が介入すべきところは介入すべきように、ソーシャルメディアの運営側や、政治家などが、「それは言ってはいけない」とはっきりと示すことには大きな意義があります。
『悪口ってなんだろう』パートIIどこからどこまで悪口なのか 9あだ名とライセンス より
わたしはここのところXから離れている、そこにしかいない人々もいるのでアカウントは残したまに行き来もするけれど、信頼できるソーシャルメディアの運営がなされていないと感じる。信頼できないプラットフォームに落としたい言葉は、少ない。
BlueskyやDiscordにも問題がないわけではないが、グラウンドルールが明確でそれによって運営をされていると感じる、一定の信頼を置いている。人と人が集まる場に、相手を尊重できない状態のニンゲンは必ずいる。それ以前に自分自身の尊重ができないこともある。だからこそ起きてしまうトラブルの予防と対応のために、人が集まる場として構築された環境には合意と信頼ができる土台や運営が必要で、それが崩れてしまったXは、信頼できた頃のTwitterを知っているからこそ、寂しさを覚える。
しずかなインターネットは、個体がたくさんふよふよと漂う感覚がいちばん得られて、好き。今日も私はタコの感覚を持ちながら、でも必要に応じてイカにもなろうとおもう。ニンゲンは一人では成り立つのが難しいから、相対的に強くなれないマイノリティの個体があつまり交わり動く必要もここのところ感じている。すこしずつ変容していくニンゲンのネットワークのなかで、タコのままでいられるかどうかを、試していきたい。旨み成分が増える変わりにこぼれ落ちるものは何があるかも、確かめながら。