私、謝憐が料理下手っていうの、あまり好きじゃなかったんですよ。食材を粗末にするの、キャラ作りのためでも「ないな」って思っていた。
でも、お母さんとの思い出だったんだってわかって、もうどうしていいかわかんないくらい、今も書きながら泣いています。
どうして名前をつけるのか、それは彼の母がつけていたから。
そうしようとして作ってるんじゃないのはわかっていても、彼にとっての料理は母親が…王妃として選ばれる女性ですから、炊事などしたこともないお姫様が一生懸命、つらくて苦しい生活の中で楽しみながら、息子たちのことを考えて作った料理なんだ。
だから、謝憐の作る料理はああなるんだ。
もう罵れないじゃん!!!!!!
食材がもったいないという気持ちはまだあるものの、料理を作る度に泣きそうです。
お父さんとお母さんはどんな気持ちで白い帯を首に巻いて梁にかけて椅子を蹴ったんだろう。
英語版は挿絵がついてるんです。ぶらさがっている二人の姿を見つける謝憐の姿が描かれている。
つらくてかなしいけど、私は同時に全ての登場人物たちに怒りも抱いています。彼らは物語の中の人間だから、書かれたとおりに動いてるかもしれないんだけど、読んでる私の中では生きて、生活してるから、怒りも抱く。
どうして、事態は好転しなかったんだろう?謝憐が不運だから?そんなこと、絶対にない。運なんかじゃないし、これが彼の運命ってわけでもない。ただただ、間が悪すぎる。でも、なんかできたんじゃないのかなって思っちゃうんですよ。八百年前の物語の中のことだから、できないのわかってるけど。
永安で水がなくなったときもさ…。なんのために政治があるんだよって思う。
この世界は「神様に祈ったから助かった」みたいに動いてるけど、そんなことあってたまるかって話ですよ。前の職場で新興宗教に入ってたひとが、仕事で何かうまいことがあっても「私がお祈りしたからだ」って言う人がいて、めちゃくちゃ嫌だった。起こりうる最悪の事態を想定して、それを回避するために知恵を絞って人と協力して、うまくいくように対話していって、それでもそれでも最後に祈るしかないんだよ。
この世界の人たちがそうしてないってわけじゃないけど、永安の人も仙楽の人も、戦う前にするべきことあるだろ!!!て憤るし、現実の今の世の中の事ともかぶって、ため息が出てしまいます。
裴宿は現在軸ではなんとかかんとかって料理を食べてのたうち回り言語機能にも支障をきたしていたけど、そういうわけがあるんだ。
花城がいつも完食するのは謝憐への愛かなって思ってたけど、彼はきっと小さな鬼火のころから見守っていたに違いなく、だとすると、彼と料理とお母さんのつながりもわかってるんじゃないかなって。残さず食べることが愛なんだよ。
どうして料理でここまで情緒を狂わせているかというと、食べるって自分の中で好きなテーマの一つだからというのもあるし、両親が死んでから残った料理を食べる謝憐の姿が好きな手塚治虫の短編漫画「安達ヶ原」に通ずるものがあるからです。
お父さんとお母さんの亡骸はどうしたんだろう。太子峰の棺には戚容がめちゃくちゃにする前はきちんとおさまっていたようなので、謝憐がちゃんと弔ったんでしょうね。
本当につらいです。