人の悩みを聞くと安心する。
自分の悩みがうまく言語化できてないからこそ、自分の悩みの代わりとなって表出されたような気がするからかな。
僕は昔、悩みがないってずっと思ってたけど、たぶん相談する術を持ってなかっただけなんだ。何も見えてないから幸せだっただけなんだ。いや、今も幸せだけど。悩みがあるほうが健康的だよな。
問題を認識できてない。悩みになってない。言語化できてない。客観視できてない。つらくても別のモノのせいにしたり、こういうことも失敗もあるよねって言い聞かせて、自分の中で消化したり蓋をしたりしていたから、相談しなかったんだ。
ていうか、薄々そういう状態だということは気づいていたけど、問題視してなかった。相談ごとがないのは幸せなことじゃん、自分の中で解決してるならいいじゃん、って思ってた。自分で解決できるってことはかっこいいことじゃん、って。
でも実は解決してなくて、具体的な課題として目に見える形で表出しなかっただけなんだ。その課題を解決しないと前へ進めないという状況がなかっただけなんだ。だって前へ進もうとしてなかったんだから。
尊敬している人の悩みを聞くと、それがまさに自分の悩みであったかのような感覚になる。たぶんそうじゃないのに。
その人の考え方が好きなだけなんだけどね。その人が多くの人に共感される考え方をしているだけなんだけどね。自分が過去にそんな思いになったような気がしてくる。具体例も思い出せないのにね。
自分は中身のない、自分の考え方を持ってない人間だなって思う。考えを持っていないから理屈や論理に頼る。Google検索に頼る。多くの人が賛同する意見を頼る。
人に相談するのが恥ずかしいって思うから、悩みを言語化して表に出す人をみて、かっこいいって感じるし感動する。
自分を出すのが恥ずかしいって感じるから、自分ではなく自分の作ったものを見てほしいと思う。
自分は、ものづくりをする人間だ。でも自己表現をする人間ではない。
僕のものづくりは比較的一貫性がある。役に立つものを作るということだ。
定量的指標での高評価やニーズに合致する、客観的な価値観で良いものを作ろうとしていた。だからデザインが好きだ。理屈や論理に頼っていいんだ。むしろそうあるべきだ。ただ、それは全く自分の意見や感情を表現したものではない。
中学の進路選択で自分の興味のある美術系か技術系かで悩んだときに「僕は表現者じゃないから工学だ」って思った。
そして工学を学ぶ過程でデザインに出会った。デザインはアートとほぼ似たようなもんだと思っていた僕の頭にパラダイムシフトが起こった。「工学も大事だけどたぶん大事なのはデザインだ」そう思った。
自分の意見や自分の人間性を見つめる、振り返るのはしんどかったから、無理やり肯定してきた。自分はこういう人間なんだって。そうやって、自分の人間性を振り返らずに、自分の人間性から逃げて技術の世界に入っていった。
だって技術は定量的だし、工学は自然や物理現象を相手にする。数式や実験で結論がドンと出る。人間性に向き合わなくていいから楽だったんだと思う。
でも今、自分の人間性の欠落に気づき、感情や性格の言語化力が高い人に憧れを持ち始めた。
そして、会社では自分の思ったことや考えを適切に言語化するよう求められた。
自己表現や人間性と向き合うことを避けたつけが今回ってきた。なんて抽象的でフックのかけどころがない概念なんだ。
工学に進んだことは全く後悔してないけど、人間性から逃げるのは悪手だった。工学からデザインへ、デザインから人間性に関心が移り始めている。
だからまずは言語化してみた。読んでくれてありがとう。