(映画『脱出の最中』について)
ずっと海のみぎわを行くような映画だと思う。波と風の音がたえず響き続けるなか、歩いてきたはずの足跡はあとからあとから波にさらわれる。たったいま波が残していった跡も、瞬間、次の波、その次の波にうわがきされていく。光も影もかたちをとどめることがない。
海辺の町に生まれ育った「くーちゃん」と「さきちゃん」が、いちど離れ離れになって、長い時間を経てから生まれた町とは別の海辺の町で再会することになるまでのできごとは、ふたりの声がモノローグや会話のようなかたちをとりながら、流れていたはずの時間の順序とはちぐはぐに、てんでばらばらに、語られていく。わたしに、それらの断片を拾いあつめてつなぎあわせようとするような楽しみがなかったかと言われたら嘘になる。
けれど、いろいろなことを忘れてしまっている「くーちゃん」の語りは、遠い子供のころのことを思い出しながらだからというだけではなく、生来のものでもあるだろう(と確信させるカワシママリノさんの存在感!)ぼんやりとしたとりとめのなさを保ち、そんなわたしの手つきをはぐらかし続ける。と、言いながら、海へ行くすこし前まではずっと働きながら日々を過ごしていた「くーちゃん」の置かれていた状況には思いを馳せずにいられない。
労働にさらされっぱなしのすりきれた心身を引きずりながら、記憶からなにからとりこぼしていくのをぼやけた意識のまま見送るしかない感じ。わたしの身には覚えがある。電話の向こうの「さきちゃん」に「行きたいよお」とこぼしながら、海へ行く、と決めるまでのあいだにはさらに時間を要したであろうことは疑いようがない。
対して、「さきちゃん」の声は「くーちゃん」のうつろなところを補うようにきっぱりと通る。かつて「くーちゃん」に置いていかれて、そのあと姿を消してしまった「さきちゃん」の声がふたたび「くーちゃん」に届いたとき。よんどころない映画のなかで、わたしはどれだけ安心しただろう。「くーちゃん」の忘れっぽさをじゃれるようになじりながら(「うちのことも忘れとったもんな」)、それでも「さきちゃん」の声は「くーちゃん」を導く。
〈ふつうの暮らし〉からある日ぽろっとこぼれてしまう。『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』『にわのすなば』ふたつの黒川監督作品と共通している感じをひとついうのならこのあたりだろうけれど、こぼれたあとの〈暮らしっぽさ〉のうすさは『脱出の最中』がずば抜けているかもしれない。ふたりが(おそらく)滞在することになるカフェ兼ゲストハウスで、「さきちゃん」が卵をゆでる場面がある(自分で食べるのか、それなりの数だからカフェの仕込みなのか、わからない。)けれど、ひと足先に着いていたというくらいの「さきちゃん」がこの町になじんでいるわけでもなく、「とりあえずぶらつこう」という感じ。暮らしとは場所に経験を積み重ねることだから(あるいは『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』『にわのすなば』にみえたようにそこにある暮らしに交じることもなければ)、ふたりにとって旅先であるこの町に、暮らしの感じはない。
代わりにあるのは、たったいまここに合流したばかりのふたりの、かつての記憶といつかの夢の言葉。ふたりの声によって、あたためていた過去の語りなおしと、夢の再演がなされる。ごっこ遊びにもみえるのは、自分たちの海辺の町とは似ていない海辺の町が舞台になるから。見るたびに姿を変える、懐かしくもない海の光景、知らない町の光景に、重なるはずのなかった記憶や夢の言葉、かつて親しんだ詩の言葉がたえずあてがわれることによって、言葉が光景を、光景が言葉を、たがいを波として浜としながら夢にみているような時空間が浮き上がる。
「さきちゃん」がいなくなったように感じてから「さきちゃん」がいる世界の日記を書いている、と「くーちゃん」が告げる場面。ずっと「くーちゃん」を導いてくれていると思ってきた「さきちゃん」は、もしかしたら(もう)この世にはいなくて、「くーちゃん」のなか、夢日記のなかにだけ存在しているのかもしれない、と思われて(『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』や『にわのすなば』にもあらわれる、生きているか死んでいるかわからない幽霊のような存在がわたしはほんとうに好きだけれど、それでも)ひるんだ。
ゲームのノン・プレイヤー・キャラクターであるかのような自覚にあった「くーちゃん」を〈村〉から〈脱出〉させるために言葉を重ねた「さきちゃん」もまた、「くーちゃん」につくられたキャラクターなのか。戻ることのない海辺の町にまつわるすべてを「さきちゃん」というよりしろに任せっきりにしてしまってはいなかったか。
あるいは、ありがとうと答えた「さきちゃん」のほうもここに生きて存在しているかもしれない。この海辺の光景と言葉のあいだにつくられたみぎわにあっては、いずれのありかたも可能なのだと信じられる。(夢の子供たちのように、窓ぎわのぬいぐるみのように)「くーちゃん」にこづかれた「さきちゃん」が画面の外へはじきだされたとき。あ、いなくなる。と強く思ったけれど、そのままふにゃりと画面によみがえってみせた。消える。消えてしまいそう。というぎりぎりの光景が繰り返されるなかに、ふたり(の声)はしぶとくあらわれて、あり続ける。
冒頭のほう、入り江にヘリコプターが着陸しようとしている光景があるということを思い出したのは、「くーちゃん」の声が夢日記を読み上げるうちに、〈脱出〉の足となるべく「ラーメン屋の屋台がついた車」があらわれたとき。画面では、砂浜に置かれたラーメン屋台の車のおもちゃが波にあっけなく飲まれた。みているわたしの、よくそんなにぴったりのおもちゃを見つけたね。と茶化す気持ちが、大切な乗り物をだめにしてしまったと思えて、勝手に居心地がわるくなる。そんなことはおかまいなしに、夢のなかでは無事(?)に〈脱出〉が続く。
そうそう、ヘリコプター。世紀の怪盗やすご腕のエージェントがビルの屋上から〈脱出〉するのにうってつけのあの乗り物が、海辺の町にいきなり登場していたのだった。すきまとあそびだらけのこの映画には、こんなしょうもない連想だってすべりこませることができる。
いまは「くーちゃん」も「さきちゃん」もだいじょうぶなんだ。と、思いなおす。生きていても、死んでいても。ここでは言葉を交わすことができるから。どこまで行くのか、行けるのか。〈脱出の最中〉にあって、不安も、安心もない。ただふたりでみぎわを歩いている。