帰省する電車のなかで。
駅までの道中、母から電話があった。母の他愛のない話を聞きながら、なんだかイライラしていたのだ。
ここになにか、私が私に対して許せていない何かが、あるような気がした。
まあ、いっか。お母さんになんかイライラするなんて、甘えたい3歳児みたいで可愛いじゃまいか。
はじめからすべてが愛でしかなかった
「すとさんにとっての愛はなんですか?」
そんな質問をされたような、薄ら記憶がある。
愛とは、なんだ。
愛とは、日常に潜んでいるもの。あることにすれば、ある。ないことにすれば、ない。
愛はいつでもこちらを見ている。気付くも、気づかないも、自由であることを許してくれる。
愛があるということにすれば、愛はこの瞬間から、目の前に現れる。
愛は優しいもの。優しいものだと思えば、優しくやってくる。厳しいものだと思えば、厳しさを伴ってやってくる。私たちの望むように、やってくる。
愛とは祈り。愛とは光。愛とは母なる宇宙。
心からやりたいものなんて、ごくわずか
これまで感じてきた「やりたいこと」のなかには、誰かがやっているから、という理由のものがいくつもあったなあと思う。
誰かが「やりたい」「なりたい」と言っているエネルギーをエンパシー特性で受け取って、「やりたい」という気持ちになっていたことに、いまは気づいている。子供の頃から、将来の夢は友達の夢を借りて書いてたし、気になる存在の先輩をトレースしていた。それが、私にとっての愛であったし、そういう形で相手と一体化しようとしてきたのね。
気づいて、分別されるようになった。
いま、2024にやってみたいなあと思うこと。
ギリシャ在住のコーチ&アーティストになること
絵本やエッセイ本など、本を出版すること
次点
デカ絵を描くこと
壁画、シャッター絵
そこに意味や意義など、ない。思考を挟まず、ただやりたい。それを叶えていきたいとおもう。
どうせ人は最後は死ぬのだし、何も残らないのだから、いかに目の前の時空間を喜びとするか。わたしがわたしとして生きていた証を、どれだけ世に放っていたか。
世のため、誰かのため、社会のため。そういうことから始めずとも、わたしがわたしとして生きておれば自ずとそうなるだろうと確信している。ビジネスセンスもあるので、心配はしていない。
一見、世にとって意味のないもの。だが、私にとってはいのちを注ぎたくなるもの。そういうものを、2024年はより一層、味わい、愛していきたいものだなあと感じました。それが、ちきゅうに生きる多くの生き物にとって、希望となるから。