いまわたしはなにを眼差しているのかな

何かを手放すときの、あの剥がれ落ちていくような、もうそこに意識を向けなくていいんだという安堵感。

手放すタイミングはちゃんとあるので、扇動される必要はない。同時に、どこかでは何かに扇動されているとも思う。

何に促されたいか、何に後押しされたことにしたいか。その納得感が、自分にとって掴めていれば良いと思う。

大きな変容は、静かでありたい。必要な見守りはすでにそこにあり、過度なギャラリーは不要。

はて、さて。

すでにそこにあるという考えと、無欲さ、諦めのようなもの。わたしにとっては近しい位置に見えている。

痛い体験せずとも、涙が溢れるほどのよろこびやしあわせを手にして良い。

世の中は二項対立ではないことを、いつのまにか知った。

経済力も、包容力も、見た目の美しさもすべて兼ね備えるパートナーがじぶんにはいることを認めて良い。

好きなことをして、ほしいものがすべて手に入るだけの経済力を兼ね備えても良い。

あるものは、ある。

それを優しく認めて、そこにありたい。

@chikyu_yuei
Utsuroi by Chikyu-yueiになる前の、泡沫です。 miyukisuto.substack.com