バーチャルと存在論②

Chicca
·

※「中の人」のようなワードが頻出します

酒飲みが管を巻くように書き連ねた前述の好きのロジックは、私にとって、あまねくアイドルに適用されるものです。それは紛れもない「本物」の気持ちですが、とりわけVtuberに顕著な要素をひとつ見出しています。それが「中の人の、自分自身との向き合い方」です。

大昔に「海外にVtuberが広がらないのは、日本人に比べて海外の人は『sincerity』を重視しているからだ」という論を読んだことがあります。海外にもVtuberが浸透した今日日、前半部はその限りではありませんが、後半部については今も通ずるところがあると感じています。

文中でsincerityは「真正性」と訳されていました。「表裏のないこと」「嘘のないこと」を意味しており、「正直さ」「率直さ」を意味するhonestyとは若干ニュアンスが異なるようです。私たちと同じ現実に生きている「中の人」から、見た目や名前をまるっと変えてデビューしているVtuberは、まさに「sincerityがないもの」の筆頭のように思います。

Vtuberは絶えずsincerityの問題と隣り合わせになっていると思います。本人が望もうとも望まざろうとも。

(以下、私の脳天に雷を降らせた曲です。)

Vtuber単体は、とっても魅力的でパワフルなイメージです。けれど「中の人」なしには存在しえません。場合によっては、Vtuberというアルターエゴに「中の人」が食い潰されてしまうこともあると思います。

だからこそ、私の好きな「中の人」たちは「Vtuberである自分自身」をたびたび定義します。それは融和だったり、対立だったり、併存だったりします。彼ら/彼女ら自身が確たる答えを持っていることもあれば、ファンに一端を持たせてくれることもあります。答えが変わることもありますし、まだ探している最中なこともあります。そりゃそうだ。だって彼ら/彼女らは生きているんだから。

今まで様々な存在論を本人の口やカバー曲の選曲から、あるいはオリジナル曲の歌詞やMVから勝手に読み取ってきました。絶対の正解がないからこそ、各々がそれぞれの答えを手にしていく過程を傍で眺めている……と感じていること自体が、得難い経験をしているなあ、と思います。

本当は、一億総コンテンツ時代である現代において、sincerityの問題はVtuberだけの話ではないのでしょう。きっと、誰もが偽物のアイコンと名前を持ち、誰からも指弾されることはないけれども、それをひっそり気にしつつ生きている。

その中で誰よりもsincerityに向き合い、方々から礫を受け、それでも自己を定義しながらVtuberを全うし続けている。それが私の好きな「Vtuber」と呼ばれる人たちです。その姿はまさに傑物であり、私が彼ら/彼女らに向けている好意を尊敬に変えている理由の一つなのだと思います。

でもいち人間の悩みをコンテンツ化するのも、勝手に知った風な顔をするのも、エモ泥棒のような真似をするのも、本当はいただけないことなのです。「生身の人間を消費している」という最近流行りの罪悪感が、5~6年前からずっと私を化け物にしないための軛になっている気がします。

なので、この「好き」は絶対裏向きにすべきですね。

墓に持っていくついでに、ここに彫らせてください。

マジでありがとう……