カレンダーに目をやる。気づけばあれから既に半年間が過ぎている。長期に亘って筆舌に尽くし難い地獄の苦しみにさらされ続けたせいだろうか、とうとう全神経がバカになり 死にぞこないのゾンビよろしく魂を失いながらも虚しく無様に毎日ずるずると過ごしていた。
私はどこにでもいる夢みがちなキモ・ヲタク。美しい西洋茶器に囲まれ立派な建物の中で絢爛なアフタヌーンティーを楽しみ2次元キャラクターとの婚姻届が出せるというまさに夢のようなサイトを眺めながら結婚指輪のデザインを考えちゃったりして気分高まって鼻歌も歌っちゃって…呑気に平和ボケしていたある日、それは音もなく訪れた。
こんなひょんなことがきっかけで柔らかな愛おしさにまみれた2年間がいとも簡単にぶち壊されることになるなど、その時の私はまだつゆほども知らなかった。(知っていたところで私にはどうすることもできないのだが)
彗星のごとく界隈にやってきたその新入りオタクはやけに絵がうまかった。毎日それはそれは物凄く美麗で妖艶で…理想を煮詰めたような推しの絵が見られるなんて夢のよう。神絵師が過疎ジャンルに参入したこと、当初は嬉しかったけど、そんな気持ちも長くは続かなかった。当然、界隈が彼女中心に回るようになるまでさほど時間はかからなかった。私はいつの間にか輪の中からはじき出され、界隈そのものから無視されるようになった。みんな彼女の動向に釘付けなのだから、当たり前である。時間は有限なのだ。誰だって優先順位を決める。彼女らだって私を無視しているつもりなど毛頭ないだろう。
そして後に知ることになるのだが、その新入りは筋金の入ったドラゴン絵師でもあったのだ。一次創作アカウントの、言葉を失うほど完璧な絵ばかりが並ぶメディア欄を見て私は世界の終わりをテレビのニュースで知らされた小市民が如く狼狽し絶望した。まずいなんてもんじゃない。この巨大隕石は間もなく人類を絶滅させる。こんなちっぽけで無力な私に今更何ができるというのだ。
顔も知らぬ完全上位交換の何者かの登場によって侵され破壊され捻じ曲げられた私の甘美な思い出たち、私だけのささやかな宝物、一度きりの人生の意味、この世に存在している価値そのもの、かけがえのないもののすべてが正体不明の理不尽な災害のようなものに今 消し飛ばされようとしている。
驚異的な高さの津波は勢力を弱めることなく界隈の隅々まであっという間に広がり、私の魂を攫い 二度と水面へ上がれぬほど真っ暗な深淵へと引きずり込もうとする。なんだこれは、冗談にならないくらい引っ張る力が強すぎる。もうこの人の作品なんて見たくないのに、抗えず見てしまう。まず、お前は誰なんだ。なぜここにいる。このまま強い力で引っ張られ続けたら未来への希望さえ消えかねない。魂が、八つ裂きにされる。流石に一発思い切り殴ってやりたいが、既に土俵の高さはタワマンくらいあって、彼女の姿はもう見えない。ああ、感想箱に「ようこそ!あなたみたいな素敵な人がトロンを好いてくれて嬉しいです!」なんて書いて送らなきゃよかった。過去に遡って自分のことも一発殴りたい。ハッタリでもいいから「ここから出ていけ」と書けばよかった。一矢も報えない。
侵食する絶望に過去が、記憶が、そして未来までもが蝕まれてゆくのをただ見ていることしか出来ないなんておかしい。折り重なる理不尽と不条理に苛立ちが抑えきれず、最初は当たり散らすように啖呵を切ったり罵声を浴びせたり、一通り暴れて抵抗してみるなどしていたが、すぐに体力気力は尽き果て、今では見ての通り譫言の如く泣き言を垂らすだけの廃人である。そして過去に放った強い言葉たちはひとつも彼女に届くことはなかった上、ブーメランのように返ってきて自分の心をザクザク傷つけるだけだった。実をいうと今もまだ己の呪詛は深く刺さり続けている。こめかみから流れる血が生暖かい。臭い。
そうしている間にも かの天災はちろちろと赤い舌を出しながら高く笑い、挑発するように舞い踊り、友達と何やら美味しそうな焼き肉を食い、鉄の胃袋でコラボカフェを梯子し、私の決死のエアリプ(撒き餌)をすべて無視し、…もはや私ごときが何をしても無意味なのだと一挙手一投足で分からされるだけ。
絵、小説、考察、漫画…自分がどんなに頑張って何かを生み出しても、それは彼女のあらゆる創作物の下位交換にしかならず、下手したらパクリ、名付けるならば ニセモノ、マガイモノ、デキソコナイ、チンチクリン。この狭い界隈にトロンとドラゴンが好きな人は2人もいらない。悪夢かと思うくらいキャラが被りすぎてる。消えるべきは、当然雑魚の私の方。神様なぜ彼女はトロンもドラゴンも死ぬほどうまく描けてイベント慣れしていて製本に詳しくて同人活動している友達が沢山いて…………………………ああ、神様なんて大嫌いだ。なぜ彼女をこの世に作った。神様……………いるんだろう、何か言えよ。
(↑見たことないが彼女はきっとこんな姿をしている筈)
6ヶ月という永遠にも似た時の檻の中、天災は我がオアシスに滞在を続け 無限の火の矢を放つ。彼女は本人も自覚しているくらい、とにかく筆が速い。どこの美大出身だろう。圧倒的な画力とスピード感、まさにアスリート。間違いなく絵を描くことが本職であることが伺える。よって私は毎秒ごとに途轍もない絶望と無力感を浴び続けていた。
新しく妄想ツイートが投下される度に心臓が烈しく痛み(悔しいことにキャラクターの把握と言語化がこの上なく的確なのだ!新参者なのに!!!そして、言葉の端々から深い愛が伝わってくる!!オエ!ゲロロロロー!!)、比喩ではなく猛烈な吐き気に苛まれる。一時は食事も喉を通らなかった。何を食べても味がしない。そしてその痛みや無力感は心に強く刻まれ、徐々に無防備な深層へと沈み、苦しみ疲れた果てに揺るがぬ諦観へと姿を変えていった。小さく欠けたエナメル質の穴に入り込んだ虫歯菌が、やわらかな象牙質に到達し神経に向かって進みゆくような静けさで、私の心の硬い末端から無垢な中心までもが いつしか諦観に蝕まれゆく。
だって、彼女がいるなら自分、いらないじゃん。意味ないじゃん。最初から。なんだったんだろ今までの人生。なんのためにこんなに一生懸命心臓が動いてるんだろう。この人がいる限り、自動的に私の存在は否定され続ける。いるだけで尊厳が凌辱される。時計の秒針のリズムで。
圧倒的な諦観に支配される、それは、予期された痛みからせめて少しでも心を鈍麻させてやろうとして脳が取った本能的選択かもしれない。肉食獣に捕食されることが確定した草食獣は死の痛みを麻痺させるため脳から多量の脳内麻薬が分泌されるという。だから捕食されながら恍惚の表情を浮かべる。臨死のユーフォリア。ドーパミンの海に自ら身を投げそして死ぬ。もうほかに私が選べる手段はない。どうせ死ぬなら安楽死がいい。楽に死にたい。もういいから早く殺してくれ。楽になりたい。
しかし、彼女は私のことなど視界にさえ入れていない。私が消えても気付かない、気づいたところで、ふーん、誰?ああ…なんたる無念。来週のメンタルクリニックで、薬の量を増やしてもらわねば。山となるマイナスの負債。これが私の作品か?
そんな途方もない苦しみが、誰に理解されることなく己の日常の一部として癒着しようとしているところだった。この期に及んでどうすることもできない自分に対しての怒りはしぶとく燻り続けており、それでも、それでも、それでも好きなキャラクターに縋らずにはいられない自分の愚かさが悲しかった。移ろう季節の匂いも大好きなおやつも全部涙の味に掻き消される。明くる日も明くる日も痛くて悲しくて悔しくて孤独だった。
ただ痛みに耐えることに必死で気持ちをまともに言葉にすることさえできない。創作者失格、出ても癇癪、頑張れど癇癪、何もかもが儘ならない。私が生きながらにして私でなくなってゆく。死にゆく自分を自分が見つめている。こんなふうにあっけなく終わるのか、私の人生は。ダサすぎる。助けてくれ。どうすればいい。苦しい。辛い。私の居場所がどこにもない。この地獄の出口はどこですか。
私が何をした。この苦しみの根源は何だ。これまで30年と少し生きてきて、全く前例のない出来事ゆえに 過去の体験からヒントを縋れぬという焦り。これほど長く深く落ち込んだことなど今まで一度もなかった。
時を経るごとに嫉妬の炎は体を内側から徹底的に炙るように焼き尽くし、気力も体力も消耗してゆくばかり。ありえない。ありえないつらさ。意識はあるのに何もできない。こういうとき、行政に頼ったらなんとかしてくれるんだろうか。もうなんでもいいからなんとかしてくれ。
最初に一匹のおたくがいて、運命に吸い寄せられるように好きなキャラクターと出会い、陽気に花火を打ち上げ、夢のお花畑で愛を囁いたりなんてしながら自らの人生を賛歌する、これまで何度も繰り返してきた馴染みのお祭りを楽しんでいた。
しかしなぜかお祭りはいつの間にか血の雨が降る侵略戦争になっていた。私が時間をかけて手入れした大切なお花畑は植民地として目茶苦茶に蹂躙され今は見る影もない。無表情で更地となったかつての楽園を見つめる。命が脅かされているとき、人は泣けない。声も出さず空襲の爆撃から逃げるしかない。涙なんて心に幾ばくかの余裕があるときにしか流れない。雨に濡れた街の景色はどんどん赤くなる。神輿も好きな人も友達も、いつのまにかみんなみんな赤黒く染まってだれもかれもわからなくなってしまった。自分がどこから来たのか、これからどこへ行けばいいのかさえ分からない。前後不覚の地獄。ああ、そうしているうちにまた新しい絵が投下された。界隈から立ちのぼる悲鳴混じりの称賛コメント。本当に、死ぬほど上手い、ええ、数分で描いた落書きなんですか、これ、あはは…壊れちゃうよお私…もう限界だよ…あははは、あははは、あははははは、笑えるよね笑っちゃうよね笑うしかないね〜あはははは、…あ〜〜
ねえ私このキャラクターのことが大好きだよ、ずっとずっと大好きだよ、何よりも愛してる。揺るがない。でも、私の愛ってなんの価値もないのかなあ?
どうやらそうらしい。
私って何?ゴミ?
どうやら…
ごめんね、わたしに愛されても嬉しくないよね。
素晴らしい絵と文章を生み出して、もっとちゃんと愛してあげたかった。
価値のある両腕であなたを抱きしめたかった。
…
助けてほしい。誰に?
助けてほしい。どうやって?
神輿なんてまた担げばいいじゃん。いいえ、こんな血濡れの神輿、手が滑ってうまく担げない。
相手はこの界隈を牛耳るスターリンか、毛沢東か、ムッソリーニか、プーチンか、ヒトラーか、伝説のカリスマ侵略者。瞬く間に注目を集め熱狂的とも言えるほどの信者を増やしいとも容易く自陣へと取り込んでゆく。みんなメインの推しキャラクターのことをそっちのける勢いで彼女の存在そのものに心酔してゆく。感想箱には熱烈なラブレターが届き続け、毎日雪だるま式にフォロワーが増える。界隈の人と楽しそうにやり取りする様子が流れてくる。あ、気になるあの人も、交流のあるあの人も、そして、密かに好きだったあの人も。いつの間にか彼女と繋がっている。私はリムーブされたのに。オセロがひっくり返り四面楚歌。なぜだろう、裏切られた気持ち。こんなの認知バイアスだとわかってるが。とにかく、この流れが面白くなさすぎて爆発しそう。したところで彼女には気付かれず犬死にか。ならやめよう。犬死には一番つまらない。
そこで一つ疑問が浮かんだ。
果たして…苦しんでるのは私だけか?私だけがこんな気持ちに?私はおかしいのか?なにか間違っているのか?他に同じ気持ちで苦しむ人はいないのか?みんな、これでいいのか?そりゃ、推しの神絵が毎日投稿されるのは嬉しいだろうが。本当にそれで良いのか?皆の心のなかはどうなっている?誰か、私以外に一人でも、辛い嵐に耐えている者はおらぬか?
なあ、返事をしてくれよ、誰でもいいから
こんなに人が増えたのに、誰もいないみたいじゃないか
自分の叫び声だけが虚しくこだまする
ふと、大好きなキャラクターのことよりも彼女について考える時間の方が長くなっていることに気づいた。嫌で仕方ないのに通知を入れて誰より先にツイートを読んでしまう。裏垢を探して四六時中張り付いてしまう。交友関係を把握しようとしてしまう。嫌なのに新刊の情報を追ってしまう。弱みを握りたくて齧り付くが一向にボロを出さないところがなおも私を苛立たせる。好きな人の顔よりも嫌な人のツイートを読む時間のほうが長いなんて意味不明。寝ても覚めても気になる。恋だ。これ恋だ。俺のヒトラー、愛する女。
昨日、無関係な友人を巻き込んで新刊を手に入れてしまった。万が一の時のためにと 友の手(と彼の貴重な時間)も借りたのだ。二匹の三十代、PCの前で破裂寸前の心臓をバクつかせながら販売待機。彼女の信者数的に、争奪戦が予想されたから友達までも巻き込んでしまった。そこまでして私は彼女(愛する女!)に執着している。どうせ、本が届いても悔しすぎて1ページも読めないくせに。ただ、あの本が一冊でも他の人の手にわたるのが嫌だった。正直、買い占めてぜんぶ燃やしてしまいたかった。自分にはそんな地味で無意味な反逆しかできない。その間にも感想箱には続々と彼女の新刊を褒め称える文章が届く。死にたい。悔しすぎて前が見えない。死んで化けてお前を呪ってやる。あー、つまんない。あいつの全部を今すぐ台無しにしてやりたいのに、何かアクションしても台無しになるのはいつも私の人生ばかり。
…
物語が急カーブを切ったのはそこからだった。
無事に通販作戦を終えた戦友からメッセージが届く。
どういうわけか、友達に私の魂がまるごと憑依した。たった一枚の表紙絵を見ただけで、この気持ちになった友達を誇らしくも恐ろしくも思う。(もっとも、一番やべーのはその絵を描いたあの女に他ならぬのだが)
うまく言えなかったことを全部真っ直ぐな言葉にしてくれた。
シンクロ率、1000000%、エヴァ、翔びます。
その瞬間、急に全身を巡る温かな血液の存在を思い出した。60兆の細胞たちの振動を思い出した。私がいま命を持って生きてることを思い出した。好きな人もドラゴンも立場も居場所もなにもかも奪われてもう終わりだと思ってたけど、まだ命が残ってる。この命一つで何ができるか。最後の希望をこの命に託したい。
この気持ちを拾ってくれる人があなたで本当によかった。
同じナイフを外側から包み込むように強く握ってくれてありがとう。ひとりじゃ手が震えて握れなかった。
正直、もう、どう転んでも後悔とかないです。
風に舞う羽毛のように、軽やかな足取りでやってきます。
☆
☆☆
☆☆☆
よだん
一時は全部自分のせいにしてみたり、彼を好きでいることを諦めるなどして全力で逃避を試みてみたり、本当に色んなことをしたがほぼ無駄なあがきにしかならず、ただでさえ少ないエネルギーをいたずらに消耗しただけだった。
消費者として推し活をすることの滑稽さや虚しさに目を当ててそれっぽく批判してみたり、脳の隙間を埋めるためアニメや漫画をむさぼり喰うように摂取してみたり、できることは何でもやった。フリーレンも鬼滅の刃もダンジョン飯もマッシュルもブルーピリオドも映像研も面白かったけど、私の器はヒビだらけでボロボロなので、何を入れても割れた隙間からこぼれ落ちて何も残らない。そして、どんなに流行っている作品だろうとそこにはトロンが出てこないからある意味退屈だった。私の心は無意識に彼を求めてしまう。たった一人の男の影に魂が囚われてどこへも行けない。彼を置いてどこかへ行きたくない。私だってなれるもんならなりたかったよ浅草氏のような人に。浅草氏なら何て声かける?私に。こういう時どうする?
大量の作品に触れて得られたことは、彼というキャラクターは唯一無二で、私は彼のことを嫌いになることも無関心になることも到底できないという確信だけだった。いまだに時代は彼に追いついていないようだが、そのうち急に注目されだす日が来てもおかしくないと思っている。私の一番星たる男よ。眩しすぎて目が焼ける。いつか骨の芯まで焼き尽くされたいから、その日までは死ぬわけにいかない。
☆☆☆
ぜんぶ無駄と思えた漫画アニメ暴飲暴食の中で唯一心に深く響くものがあった。それが これ、ピンポンのオープニング曲。まさに今の自分のために作られた曲かと思って心底驚いた。嬉しくなった。世界の主人公って私だったのか…
そうか。主人公なら、やれるか?私、あいつのせいでこの先ずっとモブにしかなれないまま終わると思ってた。
やりたいよ。やらせてください、いまの自分にできること全部。
何もしないまま消えてゆくもんか。
そうだ、消えてゆくもんか。消えてやるもんか。
ありがとう、こんな気持ちにさせてくれて。私別にあなたのことを憎いだなんて本当は少しも思ってない。あなたが、私の心の綻びを映し出すのに最適な鏡だったというだけ。たぶん。
…
高貴な心って、どんな心でしょう。いまだわかりません。
怒や憎しみで動く私を見てあなたはがっかりしますか。
それとも、