先日Youtubeで公開された、関西テレビ制作の虐待冤罪ドキュメンタリー『引き裂かれる家族 検証・揺さぶられっ子症候群』(https://www.youtube.com/watch?v=WU20UIVMmIA)を視聴した。心が痛む内容で、心苦しい気持ちで視聴した。
その中で気になった点をいくつか取り上げる。全編については是非、Youtubeで見て頂けばと思う。
虐待の判断の偏り
視聴をして一番に感じたのが、虐待の判定の偏りであった。取り上げられていた事例では、子どもの揺さぶられっ子症候群が疑われるケースで病院が児童相談所に報告すると、児相が子どもを一時保護して、そのまま長期保護に同意しないと子どもに合わせないと脅して、長期で親子を接触させないという流れであった。医師は虐待が疑われるケースでは児相に報告することは真っ当だと思うし、その後に一時的な保護が行われるのは、子どもの生命を守る上で必要な緊急措置であると思う。もちろん虐待ではないケースでは、一時的に引き離される親子がかわいそうだが、本当に虐待が行われているという最悪のケースを想定すると子どもの生命を守るために一時的な措置は仕方がないと思う。
しかし、その後の調査が十分に行われずに判断されている状況は大いに問題があると思った。家族の周囲への聞き取りなども行われず、他の医師によるセカンドオピニオンもなく1人の医師の診断のみを信じて判断を下している児相の姿勢には大きな問題があると思った。児相職員は親子の面会時の観察などもしていないよう、これは児相が批判されるべき内容であると思う。
虐待について医学的知見からの歴史が始まったことなどが影響している可能性について番組内でも取り上げられていたが、歴史のスタートがどうであれ総合的俯瞰的に判断されるべきて、1人の医師の判断で虐待の有無が判断されるのは大きな間違いだ。
虐待の調査手順がもっと確立され、見直されることが望ましいが、子ども関係にこれ以上の予算が出なさそうな日本の現状を考えると難しいのかもしれない。
学者と役人の言葉の違い
揺さぶられっ子症候群を第一に考えるべきという政府の虐待防止マニュアルを作成した学者に対するインタビューも動画内にはあった。子どもを守ることを第一に考えている、学者さんというイメージを受けた。学術的な内容に関しては、私は専門でもないしマニュアルを全て読んでいるわけではないので分からないが1つだけ気づいたことがある。それは、学者と役人の言葉の認識の違いだ。学者は子どもの命を守るために、まず揺さぶられっ子症候群を疑い検証していくという意味合いでマニュアルを作成しているようだったが、実際に運用する児相の職員は第一に揺さぶられっ子症候群と考えて(決めつけて)その後の行動をしてしまっている。仮説と検証を繰り返す研究領域と異なり、マニュアルとして実際に運用を開始すると、検証過程が省かれ運用されるため「第一に」と書かれてしまっている部分のみを認識し、実行されているのだと思う。
これは、学者と役人の言葉の認識の違いなのだと思う。
逮捕されたら終わりな日本
メディアでは逮捕の報道はされるが、無罪の報道はあまりされない。そもそも日本の刑事裁判の99.9%は有罪判決がであるので、起訴された時点でほぼ有罪なわけだが日本では逮捕された時点で社会的に死んでしまう。
子どもへの暴行の疑いで親や祖父母が逮捕されたというニュースは聞くと、それを聞いた時にあたかも実際に虐待があったかのように感じているし、虐待があった前提でニュースを見てしまっている自分を省みる。
私の中に推定無罪の原則がなくなっているのだ。逮捕されても、起訴されても、有罪となるまでは無罪だ。
1人の医師の診断のみで、逮捕・起訴される親の気持ちを考えると警察と検察のあり方にも疑問を感じる。
権力への監視・規制が緩い日本
親と子どもを引き離すことは、個人の権利を大きく制限することであり、それが長期に渡ることは間違いでしたでは済まされないと思う。しかしそれが、まかり通っているのが日本なのだと思う。
そう考えると児童相談所はかなり大きな権力を有していると言える。親子を引き離す権利を持っているその機関をどのように監視していくのか。また親が児相の判断に異議を申し立てるような機構が存在するのか。
民主主義においては、権力は強く監視されなければならないと思う。監視されない権力は暴走する可能性がある。
知る権利が重要視されていない
ドキュメンタリーの最後は、無罪を勝ち取った人が児相の判断の理由を知りたく情報開示請求を行った場面があった。送られてきた資料はほとんど黒塗りで、一般的に「のり弁」と言われるものだった。そこから何かわかる事はなく、資源の無駄遣いでしかないような内容だ。
日本では国民の知る権利が軽視されているのだと思う。情報開示請求と開示資料ののり弁化は定期的に問題にあるが、その問題点が積極的に議論されていることはあまり見られない。
最近では内閣官房機密費という内閣が好きに使って、後々検証できないような資金のあり方についてもニュースになった。
知ることができなければ、判断することもできない。児相の判断についても、その過程を知ることができなければ検証や改善をする事はできない。民主主義の根幹には知る権利があり、知ることで権力を監視することができる。
のり弁を剥がすためには、裁判をする必要があるだろうがその労力と費用をどこから捻出するのか。個人では結局、そこまでは戦えないのだと思う。しかし、誰かへの不条理を黙認してしまえば、自分に不条理が来た際に誰も助けてくれる人は残っていないかもしれない。