特にまとまっていないが、先の書評を書き終わりちょっと外を歩く中で考えたこと。年を取るにつれて自分の自意識過剰さを自覚し、人から見られているという幻想に気づき、減退していく。勝手に追い込み追い込まれていた部分がなくなり、心に余裕が生まれより好き勝手に生きていく、もしくは自分の人生を見つめなおしていくことになる。今ちょうど35歳でこの段階に来てる。たぶん良い方向に行くと思うけど、なりふり構わずになってひどい生き方をしないように気をつけようとは思う。そこは自分というよりも父としての自覚で律することができそうだが。でも、自意識過剰じゃない人はどういう感じなんだろうか。こんなこと気にせずに一生を終えるのか、それともそもそも自分を大事に考えるから「私たち自意識過剰勢の先にいってる」のか。私は自意識過剰であったがゆえに思想とか人文が好きだったんだろうなと思う。なんであの人は~とか人っておもしろいなって思うのはそういう周りを気にするところから来てるのだろう。ともすれば、今の自分は自意識過剰であることが大前提にあってその中で自己形成されているので今の自分を好きだと思うことはつまり自意識過剰性を肯定することになるのだ。
自意識過剰であることの弊害は?思ったような行動がとれない、よそ様を意識して自分の意思決定を行う。ストレスにならなければ別に何の悪いことでもなくむしろいい事なきもしてくる。回りに流されるという表現だと少しは嫌な感じになるのかな。流されたほうがいいときと流されなくていいときがあって、それぞれで適切な判断ができる人間になることが重要。そのためには適度な自意識と自意識に対する向き合い方の素養を持っておきたい。これは遺伝なのか?性格なのか?子供に父と同じ年齢になれとは言えないのだ。
何となくよさそうなこと。①自分はあまり自意識過剰的なそぶりを見せないようにする。これは母の自意識過剰性をすごく感じていたからそう思う。②偏見を持たない姿勢を見せる。遺伝的に固定的な考え方でとらえる人間になる可能性がある。③自己肯定感を持たせる。④自分の気持ちを目を見て素直に伝える。もう少しいうと、自分の周囲には何でも話してくれる人がいる(絶対になんか指摘してくる人がいる)という認識を持ってもらう。
自意識過剰の根源は、[1]見えない世論の知覚と[2]世論から外れたくないという羞恥心である。[1]は②④で解消する。[2]は①③で解消する。親の自意識過剰を絶対に持ち込まないことが重要だ。心しよう。