可視化される世界

cipher
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ソーシャルメディアが一般化して多くの人が使うようになり、これまでの日常では見えてなかったものまでが意図せず可視化されるようになった。人間観察が趣味だった人間にとっては、世の中にはいろんな人がいるなぁ…とまあ勉強になるので良いんだが(笑)。

人は見たいものだけを見る

人間(主語デカ)なんて自分に都合の良い生き物である。自分に都合の良いものは見えるし理解もできるが、自分に関係ないと思ってるものは見ない。街に溢れる張り紙や注意書きの多くをきちんと読んでる人間もいれば、全然見えてないどころかそもそも読む気のない(読まない、読めない)人間だって多い。大体文句言うのは後者だと思うが。

マニュアルの類いだってそうである。何か製品を購入したとして、一通り軽くでも使い方に目を通してから触る人間と、とりあえず触ればわかるだろうと使い始める人間がいる。で、これまた同じで何かトラブルがあると、「何もしてないのに壊れた」とか言い出したり、困ったときだけ知ってそうな人に聞くんだが、「それ書いてあるじゃん…」ということも多い。

私は割と隅々まで読む方だけど、自分の理解と違ったときに「ここに書いてありますよ」と言われたら「あ、ごめんなさい。書いてあるね」となる人間である。一度にいろんな情報を採り入れるのだから見落としはあるし、見えてないこともあるわけで、自分に落ち度があるのならそれは認める。その方が事は進むから。どこぞの電話会社みたいに読めないぐらいの文字サイズで書かれてるのは悪質だと思うが(笑)。

あなたのことは聞いてない

そんなわけなので、ネット上の各種メディアでも同じことが起きてしまう。「そんなことはどこにも書いてない」「曲解して理解している」「自分に取って都合の良い一部だけ取り出す」「そもそも全体を読んでない」などなど。特に昨今のソーシャルメディアでの口論に近いものは、特定の書き込みに対してわざと突っかかって暇つぶしをしてるのか?、と思えるぐらいそういう傾向が多いように思える。そういう人間像としてあげられてるのが「居場所のない孤独な中年男性」だったりするのが可哀想。

だいたい素性も知らない赤の他人に対して、いきなり噛みつけるんだからなかなかたいしたものである。街を歩いていて聞こえてきたのが気に食わないから、知らない人の家に乗り込んで「今言ってたこと、私には理解できない」とか言ってるようなもんだ。法を犯してるわけでもないのにいきなりぶつかってこられてもね…。

いろいろやりあうのもその人との関係性のうえで成り立つものであって、見ず知らずの人でかつ「そういう意見もあるよね、ふむふむ」みたいにならない人とやりあったって仕方がない。相手にする方が時間の無駄である。自分が目にしたくないものが見えたときの反応で人間性がでるよなぁ…、と。「この人は人間界が初めての人なんだろう」と思うと少し気が楽になると隣の爺さんは言ってたっけ。

メディアなどのコメント欄や商品レビューとか見ていても、それについてのコメントやレビューならわかるが、自分のことを書きまくる人が意外と多いことに気付く。「私はこう思う」なら全然良いが、「ごめん、ここであなたの出来事は聞いてない…」みたいな。レビューにしたって購入を検討中の人に、良くも悪くも有益なことを書いてくれたら良いが、「配送がだめだったから二度と買わない」とか、それ商品のレビューじゃないだろ…(笑)。

そんなやりとりの端々から、この人は他者とのコミュニケーションができるのか、自分勝手なのか他人のことまで思いやれているのか、みたいなのが見えてしまうんだよなぁ(病気ではなく特性があるのも理解したうえで)。「自分の意見を言うな」と言ってるのではない、そこに書かれた内容はよく読んで理解する努力をした方が良いし、ソーシャルメディアの書き込みにしてもその前に何かしらの背景があっての意見だったりするわけだから、短絡的に反応するのはどうかと思うよ。

清濁併せ呑むのは得意な人間なのでぼんやり眺めてはいるが、まだまだ未成熟な人類にソーシャルメディアは早過ぎたんだと思う。

@cipher
こもりまさあき、の中の人