恐らくスパムのフォロワーがブロックできないことにいらいらしてしまうぐらい、私は狭量になり、わたしという者は現実味を帯び、バスの運転手のアナウンスを聞き、ルーティンの中に溶け込んでいる。静かな車内にひびく老人の荒い息が昔から嫌いだった。
駅構内の階段を我先にと登るその群れは、死人が見えない葬列のようだと思った。だってそうだろ?こんな社会で生きている人は本当にいるのか?皆短い眠りの中で死を迎え、布団から出たくないと蘇るようなゾンビじゃないか。ぎゅうぎゅうの箱に詰めたがるひとの気持ちがわからない、どうしてそんなに狭い所を愛しているの?様々な疑問と怒りと遣る瀬無さは、だからといってどこかにぶつけられるわけもなく、ただ自分の内に消化していくだけ。大人とは、きっとそのすべを持ってしまった人のことを指すんだ。
感性が死んでしまったら、わたしは死んでしまったも同然。命以上に、この思考と泣きたくなるような透明さを抱えて生きていきたい。半透明になるなら爪先からじゃなくて心臓からが良い。内側から透明になれたら、今までの恨みも悲しみも他人にぶつけなくて済むようになる。そう信じて、水中の鉄塔が崩れる音楽を聞いていた。緑青の、まぶた。