今日食べたラーメンが美味しくなかったとか、もっと気の利いた返事ができなかったとか、面倒くさい人に絡まれたとか。毎日そんなのばかりで、こころがときめくことが少なくなった歯車の一部。好きなものはきちんとあって、それについてたくさん話したいのに、わたしの話は長いらしいから重いなんて言われてしまう。その未来がひどく恐ろしくて言い出せずにいる帰り道。けれどふと思うの、重いってなにが悪いのだろう。嬉しいことだろうと他人事のように思う。だけどこの機構の中では歯車は均一でいなければならない。重いのは不良品だ。きちんと駆動しない機械は使えない。
わたしが一方的な好意を向けるのがいつものことで、じゃあその罪悪に慣れたかと言うとそうでもない。逆に昔より辛くなった気がする。どうしてだろうと考え始めるわたしの悪い癖、こういうとき、そうなんだで終わることがいかに美徳かと思い知る。世界の裏側を知りたくなるように、わたしは叡智の終着点を夢見ている。辿り着いたその果てでふと後ろを振り向けば、道なんてできてはおらず、ただわたしはひとが見ないようにしていた集積で泣くしかなかった。
職場の電球が変わって明るくなったこの部屋に、人魚が泳いでいるような錯覚がした。うたが聞こえる。昨日も聞いた歌だ。だれかが話している。世知辛い世の中を憂う話だ。光が照っている。目がくらんだら世界は3周半回る。居心地がわからない。こころのなかで泣いているのはわたしだけだ。人魚が見ていた。目があった。青い瞳が、空を思わせた。雲一つ無い快晴を望んだのはいつが最後だっただろう。ああ、もうこどもではいられないのだと言われた気分だ。じゃあ閉じ込めてしまおう、このおもいは、だれかが開けてくれるまで待つ一縷の光。