インターネットでハンドルネームを自分に与えて他人と交流を始めたのは、中学三年生のときだった。
その時から交流が続いているのは一人だけ。
それ以外はもう連絡をとっていないし、本名も知らないので今後再び巡り会うこともないだろうと思う。
それでも、インターネットで出会って親しくなった人たちは今も鞍月にとって大切なご縁だし、また会えたなら嬉しいなと心から思う人たちばかりだ。
ひとりを除いて。
そのひとりには、住所も、本名も、別のハンドルネームとペンネームも知られているし、一度だけではあるが会ったこともあるので顔も知られている。
やりとりしていたプラットフォームは削除したし、その人からは繋がりのあったSNSアカウントの相互フォローも解除してくれと言われ、そうした。きっとその人の手元にある鞍月に関する諸々の情報は削除してくれたことだろうと思っている。鞍月はそうしたから、そうであってくれと心から思っている、というだけのことで、確認のしようがないのだけど。
その人と縁がつながり、縁が切れるまでの二年間は、鞍月にとって学び多く、楽しい時間もあったので、反動のようにトラウマになってしまった。
そうして、10代〜30代前半までに何度か繰り返している「アカウントをリセットしてそれまでのネット上の人間関係を精算したい」という欲がぶり返した。
30代になってから一度しかしていなかったアカウント転生は、鞍月にとって「現実の延長でネット上に構築した繋がりを整理して、趣味のためだけのアカウントに集約する」という目的があった。それまでのアカウント転生は、恋愛関係の終焉とともに行われていたから。
それが、30代後半で、恋愛関係じゃない人との縁が切れた関係で、しかもその人と共通の知人友人は少なく、別に環境を変える必要もないのに、どうしようもなく逃げ出したくなっている。
そう、逃げ出したいのだ。
鞍月は、その人が探そうと思えば探してしまえる名前でこれまで通りに活動することが怖い。
鞍月の間違いも確かにあったけれど、自分の精いっぱいの誠意を傾けた結果、言葉を曲解され、説明を拒否され、問答無用で敵役にされてしまった、という経験は、いつかまた理解不能な解釈で説明を封じられて一方的に悪役にされるのではないかという恐怖を植え付けた。
もうひっそりと名を変え場を変え、新しくやり直さない限り、思い出してはトラウマに悩まされて落ち込む、をくり返すだけなのではないかと思う。
でも、縁の切れたその人以外とのつながりは大切なのだ。大事にしたいのだ。
その人がもし将来悪意をもって、その人の目から見た悪虐非道な鞍月の所業! と告発してきたとして、粛々と説明をして、友人知人たちは理解してくれる、と信じるしかないのだ。わかっている。自分を信じてくれて大切にしてくれる人たちを大切にするしかないのだ。
だから鞍月は、これからも逃げたい、更地にしたい、という自分の弱さと戦い続けなきゃいけないし、負けそうになるたびこうして書き出して、自分の芯の部分でどうすべきと結論づけるかを自身に確認していく。
この病のこの症状との向き合い方は、自分の経験からもう導き出しているから。