だれかを糾弾したり、何かに反対したり、逆にだれかを擁護したり何かに賛成したり、いろんな意見がXのタイムラインを流れていく。
それらの多くは脊髄反射のような速度で、「ひと」の思考から流れ出てきたものだ。
熟考して、調査して、確信をもって外に出した「考え」ではなく、刺激に対する反応と言ってもいいと思う。
でも本来、だれかを糾弾したり、何かに反対したり、だれかを擁護したり何かに賛成したりといった事柄は、もっと慎重になされるものだったと思う。
だれかを責めるなら、その根拠が必要で、その根拠に対する正誤の調査も必要だろう。だって、なんの理由もなく責められ糾弾されたら困るから。自分がされたら困るので、ひとにそれらをする時には慎重になる。それが社会を生きる人としての責任だし、そうでなければ成り立たない社会だ。
それは擁護したり賛成したりという場合も同じで、なんの根拠もなく庇ったり賛成したりしたら、庇った相手に瑕疵があったとき、賛成した内容によって大きな不利益がもたらされたとき、困るのは自分や自分の手が届く周囲だ。だから糾弾も反対も、擁護も賛成も、かんたんに実行するわけにはいかない。
だけれども。
Xだと真っ先に慎重さが吹き飛ぶように思う。「つぶやき」だから、「ひとりごと」だから、と軽率に言葉にして送信ボタンを押してしまう。自分にしか聞こえないような小さな声でする「つぶやき」や「ひとりごと」には絶対になり得ないのだ、ということが見えづらくなる。
拡散性の高さはXならではだと思う。おかげで得られる情報もたくさんある。同好の士も得られるし、遠方の推し作家からの供給も受けられる。
でもだからこそ、Xで見かけた話題に対して、特に強い感情を喚起されたときこそ、簡単にXで投稿しないでおこう、と鞍月は思った。
全公開された情報なのだ。鍵をかけたアカウントだとしても、フォロワーには届くのだ。
だれかの意見は熱量を持っていればそれだけ他のだれかの感情に影響する。
感情に影響された視野は、視界は、情報を制限し始める。
情報は攻撃手段にも、防御手段にもなる。140字の限られた文字数で取り扱うべき情報かどうかをよく考えて発信したいし、右から左へ流すだけでなく、ちゃんと自分で調べて考えて発言したい。すぐ忘れちゃうけど。
というようなことを考えていたのだけど、まとまらないし、140字でまとめきれるとも思えないし、連続ツイートするくらいならXのタイムラインよりはこっちでしょ、と思って日記にしました。
こういうようなことを書くたびに、「おもってること」を「ことば」にするのって訓練が必要だし、それをまとめるのだって別の訓練が必要だなぁと痛感する。ぜんぜん「ことば」に変換する作業ができている気がしないし、出力した文章がほんとうに自分の「おもってること」を正しく出力した形である自信もない。さらに鞍月は要約がとても不得手なので……いや今の仕事に就いてたくさん鍛えられたのでだいぶマシにはなったのだけども、それでもやっぱりできごとをまとめるのと思考をまとめるのは方法が異なるよなぁと思うわけです。
なので、「おもってること」を「ことば」にして「文章」として出力する練習は常にしなくちゃならないなぁと改めて思ったので、できるだけ毎日、ここに日記として書いていきたいなと思います。
そういえば、ネイル塗るって言ったけどバタバタしてて塗れずじまいです。