定期的に「ものすごく何かしたいのに、やりたいこと筆頭である執筆や読書、ずっと見たいと思っていたドラマやアニメ、映画を鑑賞することにも食指が動かず、時が来たら何の躊躇いもなくスマホから消去してしまうようなソシャゲに無駄に時間を費やす」という時期が訪れる。
今まさにその時期の渦中にいる鞍月は、タイトルどおり、妙な焦りを感じざるを得ない。毎度のことだ。毎度すぎて「またか」とため息をつきながら焦燥感に追い立てられる。
そしてこの時期、大抵寝るしか解決策がない頭痛とセットでくる。鎮痛剤が効かず、整体とかマッサージを受けても解消しない頭痛である。この時期にマッサージを受けると、ふだんはこない揉み返しが来るので「ああ、これか」と憂鬱な気持ちになる。
鞍月はものすごく感情に左右される生き物である。
やる気があるときは、睡眠時間を削ろうが、仕事やその他やるべきことに追われていてもやりたいことをやりきる。1月とか2月の大量の読書量だとか、ちょっと創作がんばったかな、というのはその時期だっただろうと考える。
3月は少しゆったりめであった。仕事も忙しかった。生活においても、責任をもって進めなければならないことがいくつかあり、自分のタスク処理に家族の生活が影響されることもあったので、疲れ方がいつもと違ったし、まぁ読書量が減ったり創作意欲が下火になっても仕方ないかなと思っていた。
が、こうして振り返ってみると、単純に1月2月と燃え過ぎたために、燃やすべき薪が足りなくて火力が落ち始めたのが3月で、熾火となってしまった意欲にどう風を送り込むか、という状態なのが今なのではないかと思えてきた。
書きたいことはある。下書きしている物語もある。練っている最中の物語もあるし、1年ぶりに更新して続きを書きたい物語もある。8月末の締切に合わせて今年こそ書き切りたい物語もあるし、9月末のイベントに合わせて発行したい同人誌のプロットだってある。プロットができてるのだから本文を書けば仕上がるのに、「なにか」がまだ揃っていなくて書くに書けないでいるのがネックだ。9月末に出したい同人誌も、8月末が締切の物語も、2月に1年ぶりに更新したお話も、ちゃんとおしまいまで展開が出ていて、あとは書き上げるだけなのだが、「なにか」が足りない気がして手が進まない。
時間が解決するのか、と置いてみたけれども、毎日がびっくりするほどの速度で過ぎ去っていき、2024年ももう4ヶ月目である。3ヶ月と半分が過ぎようとしていて、このままではあっという間に2025年を迎えてしまいそうだ。
そんなことを考えていると、やっぱり焦ってくる。だったら手を動かしたらいいじゃないかと思う。本文をとりあえず下書きでいいから書く。とりあえずおしまいまで書いてしまう。公開する前にちゃんと書き直せばいいし、一度粗くでも書いてしまえば、作中世界への理解と解像度は今より深まっているはずだ。それはこれまでの拙くムラばかりの執筆人生で得た数少ない経験則から確信している。解像度が高まったからこそ出てくるエピソード、シーン、セリフ、行動、いろんなものが見えてきて、提示するべき順番や描き方だってわかってくる。だからとにかく書け、と自分を急かす。
とにかく文字を連ねたい。文章を書きたい、その気持ちを原動力に、手を動かしキーボードを叩いて文字列を書き起こせばいい。
でも、鞍月の手は動かない。
PCを開かず、スマホで明日にも削除するかもしれないソーシャルゲームアプリを開く。そんなのやるくらいなら推しコンテンツのイベントを回したり、テレビ権がなくて見られずにいた大河ドラマを1話から見ればいいのに、無為に過ごす。もったいな。
ただ、冒頭でも書いたとおり、鞍月のこの「状態」はまぁまぁの頻度で訪れる「毎度のこと」である。
ゆえに、鞍月は対処法を心得ている。それが、こうして自分の思っていることをつらつらと書き出すことだ。これがまた面白いことに、誰にも見せないアナログの日記ではあまり効果がない。誰も見ないかもしれなくとも、インターネットの海に放流することによって、「だれかに見てもらった、と思う」ことが肝要なようである。
こうして公開するための文章を書き連ねるために、本文を書かねばと思いながらもなかなか座れないPC前に座り、PCを開き、キーボードを叩いてエディタに文章を打ち込んでいる。これは、本文を書かねばならぬと思っても動けない自分を騙し騙しその環境に押し上げるための儀式である。
なんとも面倒くさいものであるが、鞍月というのは自分に対してこのような手練手管を駆使しなければならない生き物である。であるから、このようにして自分の操作方法を書き連ね、気が向いたときに読み返すためにいろんな題名をつけてあちこちに置いておく。読み返すかどうかわからないし、読み返さないかもしれないが、本当にごくまれに気まぐれに読み返してやる気になったりもするのでとりあえず未来の自分への発破を仕掛けるつもりで書いている。
「書く」ことへのハードルを超えるための儀式と、未来の自分への発破の仕掛け作業は同時に行われる。
今回は、なぜか二日ほど前に読んだ坂口安吾のエッセイにちょっと引きずられた気がする。いつもと文章が違う気がしているけども、どうだろうか。
とりあえず、この二千字あまりの文章によって儀式は成ったので、とにかく書く、を今晩または明日から再開していけることだろうと思う。