父ががん闘病中なんだけど(と自分で書いてびっくりしている)。
幸い早期に発見できて手術も終えてるわけだが、なんやかんやあり入院が長引いているそうで、今朝方心ばかりのアマギフを進呈した。暇つぶしに本でも買ってくれ。個室だからずっと音楽を流しているらしく、主治医に「○○さんの部屋スタバみたいだね」と言われたんだって。それにしてもMAX80kg半ば位あったのが「夢の60kg台突入!」なんて送って寄こすものだから、LINEの画面がじわじわ滲んでしまってダメだった。
地元で小さい頃からお世話になっていた住職もそうだ。病気でカリカリになってしまって、数年ぶりに会ったとき私はピシャリと固まってしまった。それで、泣きそうなのをバレないよう気合いを入れて「長生きしてよね〜」と笑ったのだった。元気かな。住職もかつてはずっしりみっちりした体格だったので、いやはや病と老いは怖いなと思う。特に小さな子どもを育てるようになってからはよく感じる。幼児のハツラツさってまさに命の輝きで、エネルギーがすごいわけで、一方歳をとるとそのパァン! っていうパワーが萎んでしまうわけでしょう。脂肪と共に。脂肪ってある意味若さの象徴なのかも。
残念ながら実家は日帰りで行ける距離ではなく、ついでに父の入院先もおそらく同様で(地元の病院ではないだろう、田舎なので)(てか父の入院先も知らんのか私は)、私は時折父にLINEしたり、母から来るLINEで病状を知ったり、こっちはこっちで気圧にひれ伏したりしている。
実のところ両親との付き合いは悪い方で、正直あまり彼らのことが得意でもなく、年に一度夏休みに二泊ほど帰省するのみなのだけど、こうして「死」がチラつくと途端に「なんとひどい娘だろう」なんて気持ちになる。親不孝ものめ、と思う。きっと父が(そして母が)死んだら後悔するとわかるのに、じゃあ親孝行ってなんだろう、と首を傾げ、結局大したこともしない。多分、「死」がはっきりとした輪郭を持って近づいてくるまで、そんな感じなんだと思う。そして想像するに、死は突然すごい勢いで距離を詰めてきて、その輪郭をはっきり捉えるのはまさに死ぬ直前なんじゃなかろうか。
創作において、私は死の匂いよりも生きてるものたちの軌跡を追っている。死んだ先に何があるのか知らないから。
一時期、プロテスタントの教会に通っていた。友人にも熱心なクリスチャンが多い。神を信じれば死後は安泰だけど、そうでない私の大切な人たちは天国に行けないのかあと残念な気持ちになったのを覚えている。留学中お世話になった日系人教会の女性牧師が同性愛を真っ向から否定していたのも、私は残念だと思った。また、当時の私はそれはもう荒れ狂った対人関係を築いていたので、教会でお世話になったお姉さんの前で付き合ってないけど寝た男たちについて懺悔したりもした。なんだったんだあの時間は。思い返すとウケるな。
神様は等しく人を愛しているけど、同時にみんな罪を抱いていて、それを肩代わりしてくれたのがイエスだよ、ってことなんだけど、私は信じたり信じなかったりして、結局教会に行けなくなってしまった。教会に行く時、私は神様に会いに行くのではなく、結局人にいい顔したいだけなんだと気づいて、それもまた残念だと思った。
話が逸れた。結局聖書を読んだって、祈ったって、死後の世界を私たちは知らないのだ。知ってる人もいるの? まあ、私は知らんのだ。両親や義母はきっと近い将来死ぬし、私や家族や友達も突然死ぬかもしれない。死は常にそれなりに近いところに潜んでいて、でも私たちは死の先を知らない。死の後始末はいくらでも情報がある。葬儀のことも行政手続きも相続のことも、調べればわかる。でも死んだ人がどこにいるのかは、誰もわからない。わかるのは当人だけで、私たちは死者と繋がる術を持たない。
数日前から、リビングに軍曹がいる。クモの方だ。益虫なので殺さず逃さず放っておいているけど、もしかしてあなた、私の知ってる人だったりする? なんて思う。
ずっと昔の夏、実家のデッキに一週間ぐらい居座っていたキリギリスを、母は死んだ犬だと信じていた。そんな馬鹿な。でもそのエピソードのせいで、我が家の軍曹もまさか義父だったりしないよな? と思ってしまうのだ。そうだったらおもろいな。私が夫と出会うよりずっと前に死んでしまった義父。正月に帰省して仏壇に手を合わせる時にしか声をかけない義父。まあクモはクモですよ。カメムシ食ってくれるかな。怖いけど、ありがとね。