毎朝の珈琲記録をはじめたのは、11月18日。そこからあっという間に日々は過ぎ、まもなく5ヶ月目に入ろうとしている。
ふりかえって思うのは、珈琲を通じて確実によろこびが広がったということ。日常の中に、必ず楽しみな時間がある。
また、あたらしい動きとしては、おいしいな、たのしいな、うれしいな、ということを、ためらいなく話せるようになった。小さなことだが、自分にとっては大きな進歩だ。
毎朝珈琲という名の記録を始める前は、「感覚は人それぞれなのだから、取り立てて自分のよろこびを誇示する必要はない。」そう思っていた。しかし、始めてみると、「どんな時に、人は珈琲を通じてよろこびを見出すのだろう」ということに、がぜん興味が湧いてきた。
すると、そこにはさまざまなよろこびが見られた。
ほっと落ち着くひとときへのよろこび。
好きな味わい、香りを追求するよろこび。
誰かとのコミュニケーションのよろこび。
コンペティション等で受賞するよろこび。
知識を深めるよろこび。
グレードを確認するよろこび。
そこには、自分にとってグッとくるものもあれば、自分は興味、関心はないものの、確かに存在しているものもあった。これらを客観視することを通じ、自分の傾向を客観視することができた。
わかったこと。わたしは、誰かとの相対的なものではなく、絶対的なものに関心がある。そして、それは極めて個人的な体験であり、ひとりひとりの幸福の根っこのようなものだ。
若いころから10年ほど前まで、たまたま相対的価値観が問われる職業だった。いわゆるコンペティションなどを多く経験し、それに伴い多くの賞というものをいただいた。しかし途中まったく興味がないとわかり、それでいて「なぜ“それ“に興味がないのか」を明確化することができないまま、今日まで来ていた。
相対的競争は、エキサイティングだ。利点としては魅力を明確化し、洗練させ、周知するという素晴らしい機能がある。一方、「優位である」ということは、比較対象としての「優位でないもの」を生む。
重ねていうが、相対的競争と評価はエキサイティングだ。しかし、ドキドキする。落ち着かない。長年不明瞭だったものが、珈琲にまつわる様々な事象・情報を観察して明らかになった。
ドキドキしてしまう瞬間が、自分にはどうにも向いていない。自分にとってのよろこびは、ほっと一息の時間、好きなものを探求する瞬間にある。マイペースでそれをグッと深めていきたい。
ほっこりしたい人はほっこりと、ドキドキしたい人はエキサイティングに。それぞれが、それぞれのよろこびを深め、さらによろこんでいけばいい。それだけのことなのだ。異なるよろこびを、無理に共存させる必要はない。ただ、「自分のよろこびはこれですよ」というのをはっきりさせると、求めるものにシンプルにつながりやすくなる。
誰かのよろこびの発信が自分のよろこびの発見につながったなら、またその逆もあるのだろう。だから、発信を続けてみる。自分のよろこびを深めたい誰かと、よろこびの中でつながっていったら、面白そうだから。
こんなことを、この1ヶ月で思った。
珈琲の旅は、まだまだ続く。
明確になったよろこびは、どこまで広がり、輝いていくだろう?
今から、とても楽しみだ。