友人が朝の6時半から髪を切ってくれと押しかけてくる。恐ろしいほどの社畜で美容院が空いている時間に仕事から離れられた試しがないのだ。これだけ働いているのに、年貢を納めても納めてもまだ徴収されるのじゃ…と嘆くのでわたしも賞与の33%が持っていかれたよ、回り回って結局裏金として与党に使われているなんて何のために働いてるんだろうな、そろそろこの国も終わりだな次はどこに住もうか、などと話しながら風呂をため、温かいスープを飲ませて仮眠を取らせて送り出す。
結局誰に対しても、心配はできるし優しくもできるがせいぜいそれくらいしかしてあげられることはないんだなあと思う。仕事を辞めるのも引越しをするのも誰かと一緒にいたり離れたりするのも髪を切るのも伸ばすのも全部自分の選択だもんね。選択ができなくなるまで疲れ始めたら最早救いは強制的な休息と薬くらいしかないんだろう。
わたしは追い詰められるほど何かに夢中になったり、何かに追われたり、何かを恐れたりすることはないんじゃないかなとぼんやり思う。好奇心は人の5倍くらいあるけれど、ある程度かじったらすぐ飽きてしまう。それほど何にも興味はないのかもしれない。誰か特定の人達に固執したり尽くしたりはしても「大事にする」という意味でなにかしてあげられるとは思えないし、そのコミュニティで得られる知識や情報がなくなればそこにいる意味がなくなる。だってあなたとすら、話すことがなくなったら居心地が悪くてさっさと切り上げて去りたくなるもの。
とかいうことも含めてなんというか、わたしの飽きというのはアポトーシスなのだ、たぶん。ネクローシスじゃなく。なにかに夢中になって癌化しないように根無し草でいられるように、きちんと自分で管理している霊園みたいなものなのかも。そしてわたしの夢は、いつか同じような誰かの霊園を歩くことなのかもしれない。