変な夢をみた。白人系の男性が、懸命にわたしに話しかけている。この場所は生きづらい、仲間がいない、権威的なものにすべてが巻き取られ、自分がなかったことにされるようだ、としきりに訴える。わたしの隣には日本人らしき男性がいるけれど、黙って彼とわたしを交互に見ている。わたしも彼の懸命さに応えるように、つたない英語で喋り返す。植民地主義はまだ根強く、権力をふりかざして小さきものの声を奪うひとたちがいる、あなたの仲間を見つけたい、きっとどこかにいるはずだ、と。
目が覚めるのとほぼ同時に、京都市長選の結果を見なければ、と思い、スマホを手に取る。Twitterを見るかぎり福山さんに関する投稿が多くて、これはもしかして、、と思いつつ、その内容から彼が敗れたことを察する。とても悔しい結果だった。あと数票の差で、ちいさい日々の生活や、なりわいを淡々と守るひとたちの声が拾われるはずだった。環境、自然、暮らし、人権を守らずに、なにが守られると言うのだろう。苦し紛れに語ろうとするひとの声を、だれが聴くのだろう。あの夢を思いだす。それでもきっと、ともに祈る仲間がいるはずだと。
読書会。『文化を書く』を、修辞法やサバルタン研究に引きつけて読むことができ、ちょっとだけ前進した気分になる。文章がわかることはたのしいし、うれしい。
毎日いぬといられるしあわせ。しあわせとは、ねむるいぬ。昼間に雪が降った。すこしだけ積もったので、いぬとあそぶ。いぬが雪を食べていると思ったが、よく見ると節分の豆まきの残りだった。