七草粥を食べて家を出る。はじめて沼津駅に降り立ったけれど、そういえば浅間神社には何度か来たことがある。駅から歩いていく街の雰囲気が浜松と似ていると思ったけど、それを口に出すことはひどく適当な感じがしたから、自分の中で留めておいた。外部から、〇〇県とか〇〇地域とか、人為的なもので括られて語られるのは、良いときは良いけど、よくないときはよくない。とは言っても、もし隣に誰かがいたら、きっとすぐに言っていたと思うけど。商店街のシャッターの並びは小田原と似ていた。それは雰囲気がというより、シャッターがほんとうに同じように見えたので、つい言ってしまった。
友人の企画したワークショップ(プラクティス)には、あらゆる場所からあらゆる状況のひとが集まって、言葉を並べ、交わり、すれ違ったり、重なったり、そういうことが起きている様子がおもしろかった。あなたがいてくれて嬉しい、と言われることのあたたかさを、久しぶりに感じた。何を言っても想っても重なっても、ひとはどこまでもひとりだと思っているけれど、そうやって誰かの存在があることをありがたく思えるのは、つくづく人間らしいというか、生きていることだと思う。
小腹がすいたので三島コロッケバーガーを買って新幹線に乗る。大晦日に京都から乗ったときには満席だったのが、今はほどよく空きがあるから、平日に戻りつつあるのだろう。特別な日から、ふつうの日へ。それはいつも寂しさを伴うけれど、今年はそうではなくて、はやく日常へ、ふつうへ、そう願うひとが多いだろうから、自分もそう思う。そう思わなければならないのだろうという、そういう意識がはたらいているのかもしれない。米原は大雪。開いた新幹線のドアから入り込む風に、京都の寒さを予感する。今年も変わらない、京都の日常がまたはじまる。
どんなふうに歳を重ねていけるだろうかと、そういうことをよく思うようになった。なにをして生きていこう、というよりも、(それはもっと真剣に考えないといけないことなのだけど)、なにを言って、なにを言わず、どんな姿勢で、どのように立ち、なにを見て、なにを捉え、どう見られるのか。どんなひとになろうか、どんなひとでありたいのか、もしそれを目指すなら、なにをしたらいいのか。わからないけれど、ものを読み、ひとと会って、健やかに老いていく支度をしたいと思ったりもしている。