あついー。朝大雨だったからユニクロのライトダウンを着てきたら、電車のなかですごくあつい。けれど隣に人が座っていて脱ぎづらい。変な体勢をしたらすぐにどこかが攣りそう。
『刑務所アート展』へ。初見ではいろいろと心に迫るものもあったが、何周かしてみてあらためて残る印象は、彼らの「表現」がいかに規制された枠内でなされるものであるかということ。応募用紙に書かれた教科書のお手本のような文字から、人物画の正確な表現から、規則正しい色遣いと直線まで、規律の内面化が至るところにある。まるで行政や公的機関が学校から公募して行う作品展のよう。他者に対して、自分は正しい人間であると常に表明し続けなければならないという切迫感さえ感じる。作品は鑑賞者の視点と絡み合い、それを展示して評価するまなざしの中で、虚構の「正しさ」が再生産されていく。人々はそれに抗おうと対話する。そこでは素直な言葉が紡がれる(もちろん、わたしの視点で「正しい」と思わないような発言もある)。しかし白い壁に規則正しく飾られた作品の中で、円になって真面目に話していると、それぞれが「正しさ」を要請する波に乗せられ、巻き込まれるような感覚がある。わたしも例に倣って手を挙げ、ボールを受け取り、他者に伝わるように、自分にとって正しいようなことを話す。他者に説明可能かつ理解可能な存在として自分を証明する。良い発言でしたねと言われてわたしは心底安心し、感謝する。同じグループだった男性からニコニコされると気持ちが悪い。吐き気がする。
哲学対話で話したこと、一つめは作品を見る自分に対する視線の跳ね返りについて。二つめは「正しい表現や展示」について。そしてどちらにも共通して、自分はこの場で緊張しているということ。受刑者が作品を提出するときには、かならず検閲を経ている。アート展への出展を通して、「更生」を証明しようとする受刑者もいるだろう。作品をそのまま受け取るのか、彼らの背景を最大限に考慮するのか。美術評論家にとってはその二分法はたいして意味のないことなのだろうけれど、どうしても観る側の、語る側のわたしたちが、試されているような気がしてならない。
「一般社会代表の評価者」としての視点を振りかざす彼のとなりで、わたしは頷かない。ただ呻き声のような相槌の音をあからさまに出しながら、その尖った唇をじっと見つめ、微笑む。他者とともにあるとはどういうことだろうかと悶々としながらも、自分としてまっすぐに、そこにいようと努力する。彼にとってはわたしこそが異質の他者のようだった。なぜ受刑者(中の人)に興味があるのか?なぜ隔たりを感じないのか?と彼はしきりに問う。わたしが(多少パフォーマティブに、誇張を含めながら)応答すると、彼はよくわからないという顔でこちらを見つめ、すこし角度を変えて咀嚼した言葉を、わたしの隣の女性に向かって吐き出す。その吐き出された言葉はわたしにとっていつまでも心地が悪くて、わたしは口を閉じて微笑む。他者との対話は心地が悪い。ちょっとずつ違うように伝わって、ぜんぜん違うものになって、まるでそれが正解かのようにその場で共有される。わたしのなかでは終わっていないのに。彼の中でも、続いていてほしい。でもその責任を彼だけに背負わせるのはエゴだから、わたしが書かなきゃ、と思う。何年かかるかわからないけれど、いつか彼に読んでもらえるようなものを、と、思う。