2.23

conomi
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NHKの『私の故郷 ウクライナ』を観るために起きる。大量の肉じゃがを生産し、すこし後悔しながら外に出る。二条城前の人の多さに祝日の予感がした。

京都刑務所の矯正展へ。秋ぶりの訪問、道を完全に覚えていて、やるじゃんと思った。着いたのが遅かったからか、そもそも小規模だったのか、寒いからか、出店も人も少なくて、目当ての刑務所作業グッズもあまり種類がなかった。けれど調査先の人に渡せそうな目ぼしいものを買って、粕汁を食べて、それなりに満足した。「具たくさん入れときますね!」というお姉さん。しばらく歩いて郵便局へ行き、郵便を出す。雨が降っていて、あたたまった身体はすっかり冷えて、霜降り明星のラジオを聴きながらひたすら歩く。

帰りに薬局とスーパー。一人暮らしでは買ったことのなかった高級品のいちごをついに買う。今日はやるべきことをほとんどこなしたので自分でも驚く。家に帰ってあたたかい紅茶とチョコレートで暖をとりながら、Apple Musicを徘徊する。音楽がすごく楽しい。ヘッドフォンがほしい。

夢があるとするなら、明日の朝目覚めて「戦争なんて実はなかったんだ」と言えること。志願兵の彼は言った。

昨日バスの中で大きな声で怒鳴る車椅子の女性がいた。彼女の声や言葉が頭の中でこだまする。どうしてくれるんだよ。あんたのせいだよ。なんで車椅子の私がいちいち言わなきゃいけないんだよ。呑気に座っていやがって。早くどけよ。困る私を見ていて楽しいか。そんなようなことだった。彼女の言葉が誰にどれだけ届いているのかはわからない。彼女がなぜあれだけ怒っていたのかもわからない。運転手の女性のつとめて穏やかな声と、暴力を想起させる怒鳴り声と、ぴりついているがただやり過ごしたいだけの車内の対比が、異様だった。

力のあるほうの人間が、「対話しましょう」と言うのは簡単だ。同じテーブルについて、みんなで一緒に考えて、みんなで一緒に行動して、みんなで一緒に。そんなことができると思っているひとには、それを言うのはすごく簡単だ。彼らはまさか自分らの権力が相手の同調や黙秘や怒りに影響しているとは思いもしない。彼らと同じやり方で議論ができたらなにも困らない。一緒に考え、一緒に行動できたらどんなに楽か。それができないことが障害であり、格差であり、戦争なのに。