去年亡くなった立岩真也先生の追悼集会があった。先生にはなんだかんだ入学前からお世話になっていて、直接ちゃんと指導を受けたことはないけれど、ふらっとアドバイスをくれたり、単位をくれたり、猫のわさびを画面越しに見せてくれたり、した。なにより先生の存在は(それは名誉とかそういうのじゃなくて、ほんとうにただ"存る"こと)わたしが大学院を選ぶうえですごく大きかったし、学生でいるあいだも、立岩先生がつなげてくれた縁は数知れない。集会は午前の部と午後の部があって、午前の部は家から会場まで歩いていった。一旦家に帰ってお昼ごはんを食べているとなんだかしんどくなってきて、熱をはかると微熱がけっこう上がっていた。午後の部、何時に家を出ようとGoogleマップを開いたまま、『光る君へ』を見ていたらずるずる間に合わなくなって、けっきょくYouTubeライブ配信を見ながら寝てしまった。かなり長丁場だったし、何百人も参加者がいたみたいだから、行かなくてよかったかも。懇親会は300人以上が予約していたみたいで、そんなのどうやって懇親するんだよと不思議に思った。先生のことはあまりよく知らないけれど、きっとその光景をみて笑うだろうと思う。
先生のご子息の挨拶が、午前も午後もすごくユーモアに溢れてあたたかく落ち着くもので、その声は先生のしゃがれ声とは違い、鳥の囁きのように透き通っていて、とってもよかった。わたしも大事なひとを追悼する挨拶を頼まれたらあんなことを言いたいと思った。生きること、存ること、亡くなること。いろいろ考えたいけれどどうにも微熱が邪魔をする。
あしたから京都へ来る母と行く場所、たべるものをずっと調べている。そうか、これもわたしの頭を支配しているから、だからあまりまじめなことを考えられないのだな。