カイエ 2

こんすて
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ぼくはルイーズを呼んだ.小声でその名を囁いた.すると,口の中で,その名前が溶けて,無名になり,消え去るのを感じた.ぼくは何も言わなかった.そのとき,奇妙な予感にとらわれて,こう考えた————ルイーズは自殺したのだ,いま自殺しかけているのだ,それ以外に終り方はありえない,と.そして,奇妙なことに,ぼくは顫えていたが,それは恐怖や嫌悪感のためばかりではなくて,ぼくのふるえは欲望のためでもあった.そのとき,後戻りして行ったぼくは,ルイーズの姿を見て化石したように立ちすくんだ.彼女は三歩先きのところに,壁の中にはまりこんでいて,一種の壁龕の中で身体をこわばらせ,両腕をぴったり両脇につけたまま,足もとに重い包みを置いてじっと身動きもしなかった.その顔は,たいていは黒っぽいのに,白かった.眼はじっとぼくにそそがれていた.その顔のおもてには,震えも,生命のしるしも,まったくなかった.そのくせ,眼はぼくを見つめているのだ.それもじつに異様な,つめたいまなざしなので,その眼ではなく,その背後の誰かがぼくを見つめているような気がした.誰かが,そしてたぶん————無が. (モーリス・ブランショ『至高者』 天沢退二郎 訳)

彼女はいまやすぐ傍に,ほとんど僕の真上にいて,こんどはぼくの顔が蒼白になり,ぼくの両眼がルイーズにそそがれ,彼女を見つめていた.それも,ぼくの眼ではなくてその背後の誰かが彼女を見つめていた,誰かが,そしてたぶん————無が.彼女が早口で囁くのが聞こえた————《あたしが生きる限り,おまえたちは生きるでしょう,死は生きるでしょう.あたしに息がある限り,おまえたちは呼吸をし,正義は呼吸をするでしょう.あたしに思考のある限り,精神は怨念であり復讐であるでしょう.そして今,あたしはこう誓ったのよ————不正な死があった場所には,正しい死がやってくるであろう.血が邪悪の中の罪となった場所では,血が罰の中の罪となるであろう.そして最良の者は,最悪の者に昼を欠かさんがために,暗黒となるのだ,と.》 (モーリス・ブランショ『至高者』 天沢退二郎 訳)

 詩が言葉で作られるというのは真実ではない.言葉で作られるものなど何ひとつあるわけではない.言葉は付属品であり、きっかけである.このことはあまりに忘れられすぎているが、これこそ文学が————そしてすべてのことが————今や久しく衰弱に見舞われている理由である.精神にかかわありのある事柄においては、他の場合と同じように、最低限の宿命は不可欠なのである.(シオラン『オマージュの試み』)

書くこととは一種の挑戦、現実のたくみな曲解であり、この曲解により私たちは存在しているものを、そして存在しているように見えるものを超えるのである.神と競い合い、のみならず言語というただ一つの力によって神を凌駕すること、これこそは作家の——おのれの生まれついての条件を逸脱し、壮麗な、つねに驚くべき、ときには忌まわしい眩暈にうつつをぬかし、引き裂かれていながら思いあがった、あのうさんくさい人間の典型の勲なのである.言葉以上にくだらないものはないが、にもかかわらず私たちは言葉によって幸福感に、窮極の解放に登りつめるのであり、私たちの孤独はそこでは完璧であり、どんな抑圧すら存在しないのである.言葉によっては、脆さの象徴によってかちえられた至高なるもの!不思議なことに、至高なるものはイロニーによってまたかちうることができるが、ただしその場合には、イロニーがその解体作業をとことん押し進めた結果、逆に神の戦慄を与えることになるという条件がつく.裏返しのエクスタシーの原動力としての言葉……真に強烈なるものはいずれも例外なく天国および地獄の性質を帯びているが、しかし私たちには天国は垣間見ることしかできないのに、後者すなわち地獄は、幸いにもこれを知覚するにとどまらず感受しているという相違がある.

根拠なしに生きることは可能か??

 強固な土台をどこにも見つけ出せなかったにも関わらず、私が生きながらえることができたのは事実であると。といいますのも、人は年とともに一切のものに、眩暈にさえ慣れてしまうからです.それに、絶対的明晰性というものは呼吸とは両立し得ないものですから、絶えず目を見開き、自分を問い続けるわけにはいかないのです.もし自分の知っていることを絶えず意識し、例えば根拠の欠如感が付き纏って離れず、また同時に強烈なものであるならば、人は自殺して果てるか、白痴になってしまうでしょう.私たちはある種の真実を忘れてしまう瞬間があるものですが、こういう瞬間があればこそ私たちは存在しているのであり、この忘却の瞬間に私たちはエネルギーを蓄積し、このエネルギーでもってくだんの真実に立ち向かうことができるのです.自分には二束三文の価値もないと思うとき、私は次のように考えて自信を取り戻します.すなわち、結局のところ俺は存在に、というか存在の外観の中に踏みとどまることができたが、それでいてほとんど誰も容認することのできない、事物に対するある種の知覚を失うことはなかったのだと.(シオラン『オマージュの試み』)

なぜ書き続けるのか?

 書くことは、それがどんなに取るに足りぬものであれ、一年また一年と生きながらえる助けになったからであり、さまざまな妄執も表現されてしまえば弱められ、ほとんど克服されてしまうからです.書くことは途方もない救済です.本を出すこともまた然り.出版された一冊の本、それは私たちにとって外的なものと化した私たちの生であり、或いは生の一部であり、もうそれは私たちのものでも、私たちを疲労困憊させるものでもありません.表現は私たちを弱め貧しくし、私たちの自身の重荷を私たちから取り除く.それは実態の喪失、解放であり、私たちを空にしてくれるがゆえに、私たちを救い、手足まといになる過剰なものを取り払ってくれるのです.誰かある人間を厄介払いしたいほど憎んでいるなら、一片の紙を取り上げ、そこに×の馬鹿野郎、悪党め、怪物め、と何回も書きつけることです.そうすれば、たちまち憎しみはやわらぎ、もう復讐のことなど念頭にないことに気づくでしょう.私が自分自身に対してやってきたことはほぼこういうことです.(シオラン『オマージュの試み』)