人生を半分捨てると言うこと

cordx56
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耐えられなくなったので書きます。

祖父があと2週間程度の命のようです。あ、そのことに苦しんでいるわけではありません。まぁそう長くないかもしれないとは思っていましたから。ただ、漠然と、祖父に博士号を取ったところを見せるつもりでいたので、そんなことも叶わないのだな、と寂しく思っています。

思っていたより早くその時が来てしまいました。祖父はちょっとわがままな人間だったのですが、祖母はそんな祖父に本当によく尽くしていました。だからこそ、祖父がいなくなるときは祖母もいなくなってしまうのだろうな、というふうに感じていました。そして、祖母は私のことをよく愛してくれましたから、もし別れが来るのならとても寂しいことです。

祖父と祖母の暮らす家は、東京のど真ん中、山手線などの駅から数分のところに、そこそこ大きめのビルがあって、そこが丸々祖父と祖母の家です。1階はテナントとしてお店が2軒入っていて、2階は曽祖父の代から続く医院で、3階から上が居住空間です。私も度々訪れているので、第2の家のような場所でした。そこは広くて居心地が良くて、いつでも私のことを迎え入れてくれました。

そしてもし祖父が亡くなった場合、その際に発生する相続税を我が家は捻出することができないでしょう。土地や建物は一番厄介な財産です。評価額にかかる税金が払えなければ、祖母、そして私たちは、50年もの間一家で暮らしてきた家から追い出されてしまうのです。一方で私はというと、相続税による富の再分配に賛成の立場を取ってきましたから、このことを悪く言うことはできません。ただ、私は愛する家を一つ失うという経験が初めてなので、困惑しているのです。


この話を両親としていて、いつの間にか話題は私の博士号取得とその後のことになっていました。

私は正直、博士号を取った後の人生に自信がありません。博士号はなんとか取れるんじゃないかと思います。ですが、研究職に就くにはあまりにも実績が足りません。きっと今の大学院で博士号が取れるくらいの実績はあと2年あれば出せるのではないかと言う根拠のない自信がありますが、私には新型コロナと体調不良で失った4年間分のハンデがあります。教授にもよくそのことを指摘されます。4年とは大きいものです。4年間ほぼ何もできなかったに等しいのですから。そして凡才な私には、このハンデはあまりにも痛いものです。

ですが私は前に進むしかありません。私は教授に言われたように、「人生を半分捨てる」覚悟を決めてこの道を選んだからです。


およそ3年前に私が自殺未遂をした時から、私と、私の家族は呪いに囚われてしまいました。

私は当時、そこそこ大きい企業複数社の内定を持っていました。ですが、そのための苦労もあり、あまりにも不安定な精神状態で、自殺未遂をしたのです。

すぐに、精神病院への入院の準備が始まりました。しかし、病院側が急に私の受け入れを渋りだすなど、いろいろな出来事が重なり、精神病院への入院はなくなりました。

一方で、私は家族と話し合い、内定を辞退して、1年留年し、少しゆっくりしようと言うことになりました。私は複数社から内定をもらっていたこともあり、そのことを特に問題に思っていませんでした。来年また内定がもらえる、どこか断られたとしてもどこかはまた内定をくれるだろう、そう思っていました。企業側にも少し休んでまた受けると伝えました。病気の詳細はそこまで聞かれませんでした。

翌年、内定をもらっていたすべての会社、そして他に受けたすべての会社から、お祈りをされることになりました。

たった1年卒業が遅れただけで、たった一か所の履歴書の傷が、ここまで厳しい結果を招くとは思いもしませんでした。私は絶望しました。社会を憎みました。頑張って生き延びて、こんな仕打ちを受けなければならないのかと。いっそあの時死んでいたらなと何回思ったか。毎晩睡眠薬を飲んで眠れず、枕を涙で濡らしました。睡眠薬と精神安定剤をお酒で流し込み、音楽をかけて気を紛らわせてようやく意識を失うような生活が続きました。研究になんか取り組めるはずもありません。

一方で、私は強がりでした。大学では、教授の前では、気丈に振る舞っていました。そして教授は私に博士課程の話をしてくれました。私は先生の話を聞いて、もっと研究にのめり込みたいと強く思うようになっていきました。

そして最後に受けていた企業からお祈りをされたときが、ちょうど博士課程出願のタイミングでした。内定がひとつもなかった私は、教授に縋るしかありませんでした。教授に進学の意思を伝えたら、あっさりと受け入れてくれました。博士課程への進学を受け入れてくれた教授が、唯一私を受け入れてくれた人でした。


あの日から、何かの歯車が狂ってしまいました。

両親は、しきりに私に「生きているように」と念を押すようになりました。いまだにそうです。ついさっきも「生きているんだよ」と言われました。そんなこと今まで言わなかったのに。両親の中では、私はまたいつ死んでしまうかわからない人になってしまったのかもしれません。そしてそれこそが、両親の囚われた呪いなのではないかと感じるのです。

教授には度々「才能がないのに努力もしない」と詰められるようになりました。才能がないのは認めるとして、努力とはなんでしょう。私は人生においてずっと努力してきたつもりでいました。でも誰も努力したかどうかなんて見てはくれなくて、結果だけを見ては「努力が足りない」と私に言いました。いろんな人に言われました。努力ってなんですか。精神おかしくなるまで頑張ったつもりでいるんですが、まだ足りないですか?

ですが私は「人生を半分捨てる」覚悟を決めたのです。文句など言えるはずがありません。もっと頑張るしかないのです。もっとずっと頑張るしか生き残る道はありません。


これからどうしたらいいのか、皆目見当もつきません。もう既に人生が詰んでしまったかのような感じを受けます。ですが、きっと私は生きていくのでしょう。死にかけた時に教授に「働かなくても生きていけます」と言われたのを思い出しては、生活保護の受給について調べています。

自殺とは成功をすればいいものかもしれません。ですが未遂に終わった後の苦しみは、想像を絶するものでした。いつかあなたがその縄を首にかけるときに、そのことを思い出してもらえると幸いです。