狭く苦しい空と、100mlの魔法

みなさんはどんな飲み物が好きだろうか?僕は水やお茶やコーヒーなど、口の中にベタベタとした甘味がまとわりつかない、サッパリとした飲料が好きだ。そのため、自分からジュースなどの甘味のついた飲料を手に取ることは少ない。そんな僕が自ら進んでリンゴジュースを手に取る状況がそう、空の上だ。

離陸からしばらくして身体が雲の上の気圧に慣れてきたころ、ワゴンと共に提供されてくる飲料にはお茶やコーヒー、コンソメスープなど、選択肢こそ少ないものの、座席で窮屈にしている搭乗者を癒してくれるには充分なほどのラインナップであった。まだ年端もいかぬクソガキで食い意地が張っていた僕は、もちろんコンソメスープ一択であった。なぜなら家でコンソメスープなんてものは出るわけもなく、芳しい黄金の汁は子供心をくすぐったからである。

時はすぎ、僕は大学進学を機に一人暮らしを始めた。そこで僕は出会ったのである。コンソメスープ付カップ焼きそばに。

革命であった。あんなに実家の食卓に出なかったそれが焼きそばの湯ぎりのついでのように鎮座していた。僕は嬉々として購入し、本来ならべこりとシンクに捨ててしまうその湯を慎重にスープの素を入れたコップに注ぎ込む。僕は猫舌なので、冷ましている間に前座のカップ焼きそばをかき込み、ほどよくぬるくなった黄金の汁を期待いっぱいに口にした。

あれ。コンソメスープってこんな味だっけ。

やたらとしょっぱいだけで味に深みがないうえに変な油っぽさがある。いやたしかにコンソメスープっちゃコンソメスープかもしれないが、少なくとも僕の幼心をくすぐった黄金のそれではなく、なんか茶色がかった黄色い汁でしかなかった。

陸で初めて邂逅したコンソメスープは、苦学生の僕にお似合いの薄っぺらい味がした。

そんな苦学生の僕はなけなしの金を工面して、スーパー早割にて飛行機を予約し、片道1万円くらいで実家に帰省していた。そんな空の上で僕が手に取ったのはいつもの黄金の汁…ではなく、薄透明の黄色く光輝く汁、リンゴジュースであった。

なけなしの金を貯めて5、6年に一度だけ行けた家族旅行で、確か兄はこっちを頼んでいたな。そんなに美味いんだろうか。そんな好奇心から僕は黄色い汁に浮気をし、黄金の汁と違ってほどよい適温に冷やされたそれを口にした。

美味い。

甘味つきの飲料を毛嫌いしていた僕の舌はどうなってしまったのだろうか。あれだけ口にまとわりつくことが嫌であった甘味が、狭い座席で少し疲弊した身体の隅々まで行き渡る。この黄色く輝く汁を飲めばエコノミー症候群が予防できますと言われたら信じるレベルで美味い。とにかく美味い。100ml程度の汁は呆気なく僕の身体に収まり、少し物足りなさを覚えたがおかわりをする勇気などない僕は、固いケツイをして陸に降り立つのを待った。

パックのリンゴジュースを買って爆飲みする。

それはバイト代と奨学金で細々と暮らす苦学生にとっては夢のような贅沢であった。パック百円以上の飲料は全て贅沢品だと忌避していた僕は、強い意志でお高めの同じ銘柄のリンゴジュースを買い、コップになみなみと注いで口にした。

美味しい。たしかに空の上で飲んだものとそれだ。あのうすっぺらいコンソメスープとは話にならない。だけどどうしてだろうか。

空の上で飲んだ100mlぽっちの方が、何倍も美味く感じたのだ。

果たしてそれは気圧のせいなのか、エコノミー席で窮屈な2時間を過ごす疲れからくるものなのか、これ以上飲めないと言う物足りなさからなのか。はたまた全てか。

まるで魔法が解けたようである。僕の心をあんなに揺さぶったリンゴジュースは、がぶ飲みすると甘味がまとわりつき、液体でタプタプしたお腹は適切な量というものを知らない馬鹿で無知の腹であった。僕は2度と陸ではリンゴジュースを飲まないと誓った。誓っては空の上でリンゴジュースを頼み、また陸でリンゴジュースをがぶ飲みし後悔した。何度学習しても空の上のリンゴジュースは僕を狂わせる。それほどの魅力がその黄色く輝く液体に詰まっていた。

今日も僕は飛行機に乗って、迷わずリンゴジュースを頼んだ。今日は通路席で広々と使えると思っていたが、隣の人間が領域侵犯をしてくる股の開き方とジャンボな図体であったため、少し息苦しい。そんな息苦しさを抱える僕の元に近づいてくるワゴンの音は福音であり、そこから手渡される薄黄金色のキラキラと輝くそれは救いであった。お土産を買いに街中を散策していた疲れもあったのか、今日はひときわ身体の隅々まで染み渡る。100mlぽっちの液体で、広いはずの空で狭く窮屈にしている僕は、間違いなく幸せであると断言できた。

あと数十分もすれば着陸体制に入り、夜行便であるこの機内は寝静まることだろう。100mlの液体に頼らずとも、幸せそうに寝静まっている乗客の邪魔をしてはならない。そう思い僕は日記をしたためているメモアプリを終了し、離陸まで音楽に耳を傾けるだけの存在になる。無事着陸したらコンビニに寄って、ひとパック百円以上する贅沢品のリンゴジュースを買おう。今度は適切な量をコップに注ぐことをケツイし、僕はそっと瞼を下ろした。

@corgi_matasita
日記ときどき推しへの怪文書