曖昧なものが好きだ。中性的なキャラクターデザイン、全てを描き切らない漫画の最終回、眼鏡を外して見るぼやけた車のアップライト、意識が落ちる直前の世界に溶けていく僕の輪郭。
汚いものには蓋をする。これは僕が部屋を整理整頓する上での信条であり、蓋は押し入れの扉である。遥か遠い昔はこの世界も僕の押し入れと同じように、目も当てられぬほどにごちゃごちゃとしていたのだろう。そこに物事に線を引いたり、カテゴライズして押し入れを整理することで、混沌の世界に秩序がもたらされた。秩序社会の爆誕だ。最近始めた某RPGには、「ルールは破るためにある」と言いながら野球バットを振り回す大変クレイジーな主人公がいるが、この秩序社会に生きる我々にとってのルールは破るためのものではなく従うものである。ただし理不尽なルールはバットを振り回して破ってもいいものとする。
話を戻そう。曖昧なものについての話だ。
曖昧なものというのは僕にとって、とても魅力的に見える存在である。性別不詳ながらも僕の心臓を高鳴らす色気を放つ魅力的なキャラクター達。僕は何度その存在に恋をし、期待し、そして裏切られてきただろうか。そう、裏切りである。
僕は某週刊少年誌の科学ファンタジー漫画が大好きだ。進路を決める前に愛読していたら間違いなく化学を専攻していたと確信する程度には大好きだ。僕は主人公たちが織り成す冒険譚に夢中になり、主人公が披露する科学の知識に胸を躍らせた。僕は実年齢を忘れ、科学大好きキッズとして本誌が発売される月曜日を毎週のように楽しみにしていた。そして、あれはいつものように週刊少年ジャ〇プを手にした月曜日のことであった。
瞬きをすればそよ風が吹くのではないかと思わせるほどの長いまつ毛に、意思の強さを思わせるキリリとした眉。真っ赤なルージュを引いたかのような血色のよい唇に咥えられたタバコ。時折前髪で隠れるものの、目が合った人間を骨抜きにするような甘く優し気な瞳。頭のてっぺんからつま先まで神が自ら手掛けて造形したといっても過言ではない、さながら女神の美しい姿から放たれる、自信に満ち溢れた言動の数々。
女神あらため狙撃手ス〇ンリーの登場である。
科学大好きキッズはもうどこにも居なかった。そこにいるのは女神の一挙一動に心を奪われ、女神との恋路やその先を夢想する性少年ただ一人。たった1話で女神は狙撃手さながら僕の心を射止めてしまったのだ。僕は女神に夢中になった。本誌を読み返しては女神の美しさに思わずほう、とため息を吐き、そのタバコを加えた唇はどんな感触がするのかと想像した。あまりの美しさに物語を理解するための前頭葉は破壊され、僕の脳みそは女神のことを考えるだけの機能を与えられた単細胞になった。この頃ちょうど女子高の百合漫画もたしなんでいたので、僕は女神のことをお姉様と呼び、お姉様の妹分になってお耽美な学園生活を送る妄想もした。妄想の中では僕は小柄な女子高生で、人気のない裏庭でタバコを吸われるお姉様に校則違反ですわよ、と注意をしては吸いさしのタバコを咥えさせられ、「これで共犯だな」とからかわれた。妄想の中でも間接キスどまりだった。
お姉様にハートを射止められてからの日々はバラ色だった。お姉様に出会えた今この時のすべてに感謝した。集英社があるであろう方角に両手を合わせ感謝の言葉を連ねた。お姉様の胸はかなりスレンダーだったことに気づいてはいたが、その中性的なスタイルがお姉様の魅力をより引き立てていると思ったし、胸からそのまま腰へと流れるまっすぐな線が美しいと思った。
月曜日が本当に楽しみだった。どんなにつらい一週間でもお姉様に会えると思うだけで心が躍った。さ~て今週のお姉様は?大変!お姉様の服がはだけているわ!!いくらスレンダーだからといってお姉様の身体を露わにするなんてPTAが黙っちゃいな…
ここで少年はある違和感に気づいた。おかしい。そこにはスレンダーながらもなだらかな双丘があるはずであった。丘とまではいかないまでもちょっとしたゆるやかな坂道くらいのものがあると信じていたそこには、
立派な大胸筋が存在していた。
僕は深く深呼吸をした。そして、もう一度お姉様の上半身を見つめた。立派な大胸筋だった。僕はすぐさまGoogleを開き、「大胸筋 鍛えすぎ おっぱい」と調べた。セーフサーチの向こう側にはお姉様の大胸筋とは似ても似つかぬ立派なお山が連なっていた。
夢かもしれないと思って寝た。起きてお姉様をみた。それはもう立派な大胸筋だった。大胸筋がお姉様はお姉様ではなく、お兄様であったことを静かに物語っていた。
スタンリーお姉様とのめくるめく禁断の百合物語は突如として終わりを迎えた。まだお姉様の唇の感触も指先の温度も知らない、突然の打ち切りであった。お姉様に恋をした女子高校生の人格は消えた、そこにはただ茫然とした元お姉様大好きキッズただ一人であった。
悔しいことに、お姉様がお姉様じゃないと知った後でも、お姉様はとても美しかった。大胸筋をさらけ出していても、石化していても、お姉様は女神のように美しくて、見れば見るほどドキドキした。お姉様への恋心は鎮火する気配を知らなかった。それでも、自らが勝手に抱いた理想のお姉様がどこにも居ないことに気づいて、僕は静かに枕を濡らした。
僕は曖昧なものが好きだ。曖昧なものには余白があって、そこにはどんな期待だって祈りだって書き連ねることができる。僕はスタンリーお姉様に恋をした。恋をして、余白に理想のお姉様を詰め込んで、その理想のお姉様と恋をして、その理想は裏切られた。曖昧なものの余白が好きだ。でもその余白はいつか埋まるかもしれない、そんなことも知らずに僕は曖昧さを愛していたのだ。自分の理想を身勝手に詰め込めるという暴力的な理由で。
僕はいまでもスタンリーお姉様に恋をしている。お姉様呼びが抜けるにはまだまだ時間がかかりそうだが、性別の垣根を越えてお姉様に恋をしている。ただ、ふとした時に思うのだ。僕はお姉様を女性だと勘違いして好きになったと思ったが、真に惹かれたのは性別の垣根を曖昧にさせる程の美しさと強靭な精神であり、その余白がどんな埋まり方をしても僕はお姉様のことを好きになっていたのではないか。僕が愛したものは、スタンリーお姉様でもスタンリーお兄様でもなく、ただそこに立つスタンリー・スナイダーその者なのではないか。
きっとこれからも僕は曖昧な存在を愛していく。その余白に期待と祈りを詰め込んで。その余白はいつか埋まるかもしれない。いつか僕が愛した曖昧に、誰かが線を引くかもしれない。それでも、僕はその曖昧さを愛していく。いつか線が引かれてもいい、他人が曖昧さを否定してもいい。そんなことで僕の愛は変わらない。僕が愛した曖昧とは、他人には線引きできない、僕が感じ抱いた感情そのものなのである。
曖昧なものが好きだ。中性的なキャラクターデザイン、全てを描き切らない漫画の最終回、眼鏡を外して見るぼやけた車のアップライト、意識が落ちる直前の世界に溶けていく僕の輪郭。それが実は曖昧ではないとしても、僕にとっての曖昧を愛して、今日という一日に終わりを告げる。
よく考えてみれば、本当に来るかわからない明日という存在も、曖昧なものなんじゃないか?そう思えば、労働の予定しかない明日も悪いものではないのかもしれない。もしかしたらお姉様のような素敵な存在に出会えるかもしれない。
僕は曖昧な明日の余白に「いい日になりますように」、と小さな祈りをポツリと込めて、ぐちゃぐちゃに乱れた布団に潜り込んだ。