自然科学批判に立ち向かう

しーぴー
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公開:2024/12/11

ときどきついったとかで自然科学に対する批判を目にすることがある。(直接的ではないものも含む) そのたびに思うのが「あなたは自然科学を批判するほど自然科学について詳しくないんじゃないですか?」という。

確かに無批判に物事を受け入れるのもどうかと思う。ボクはどちらかというとこっち側だったけど、さいきんはなぜ自然科学が信用に足るものなのかを説明できるようになってきた。

そういう人に対してのゆるいメッセージとしてここに書いておこうと思う。正直表立って発言するほどの元気はないし、そういう人は自然科学的アプローチそのものを嫌うので、言っても意味がないことが多いと経験的に理解している。


こういうときに ChatGPT というものは非常に便利である。フワフワしている気持ちをスパっと言語化してくれるので。「自然科学がなぜ信用に足るのかを簡潔に説明して」と言ったら説明してくれた。

自然科学が信用に足るのは、以下の特徴によります:

  • 実証性: 実験や観察を通じて得られるデータに基づき、理論が検証されます。結果が再現可能であることが重要です。

  • 客観性: 個人の主観や感情に影響されず、誰でも同じ方法で同じ結果を得られるよう設計されています。

  • 反証可能性: 自然科学の理論は、間違っている場合にそれを示す証拠が見つかる可能性(反証可能性)を備えており、進化する余地があります。

  • 普遍性: 科学の法則は、時間や場所に関わらず一貫して適用されます(例: 重力の法則)。

  • 専門的な検証: 論文や研究成果は、ピアレビューによる専門家集団の検証を受けます。

これらにより、自然科学は信頼性の高い知識体系として発展してきました。

色々書いてくれたけど、大事なのは (客観性・普遍性を含む) 実証性だと思う。単なる1人 (あるいは少人数) の思い込みではなく、誰がやってもうまく行く、つまり検証可能であることが重要なんじゃないかと。

ちょっと話は逸れるが、小学校・中学校・高校とかで科学の実験をやった (やらされた) と思う。その頃は「結果が分かり切っているのになぜやらなければならないのか」という気持ちになったんじゃないだろうか。ボクもなっていた。

今になって考えると、これは検証可能性の確認だったのではないかと思う。(もちろん実験に慣れるという側面もあったと思うが) 検定教科書に書いてることは多くの科学者たちによって検証されているから、一般に間違いはほとんどないことが期待される。しかし期待しているだけではそこらの怪しい本と変わりがない。

教科書に書かれている内容を実際にやってみて、確かに教科書通りになることを確認する。そしてはじめて教科書の内容が正しいことがわかる。科学は検証可能であるからこそこのようなアプローチが可能なのである。


逆に考えてみると、自然科学批判は極めて一人よがりな議論になっていることが多いことが分かる。具体例を持ち出すと個人批判になってしまいそうなので、またまた ChatGPT さんにいくつか例を持ってきてもらうことにしよう。

「食の健康について、自然科学に批判的な立場の人間として振る舞ってください その状態で普段のツイートを3つほど並べてみてください」

「科学者は '栄養素' の話ばかりするけど、私たちの体はそんな単純なものじゃない。地球のリズムと調和した食事こそが本来の健康の鍵。実験室で作られたサプリメントなんて自然の摂理を冒涜している。」

「農薬が '安全基準' を満たしているからって、それが私たちにとって本当に良いと言える?野菜は土と共に育ち、自然の力で強くなるもの。ラベルに '無農薬' と書かれていなくても、信じられる農家から買うべきだ。」

「カロリー計算やマクロ栄養素なんて、生命の豊かさを切り捨ててしまう発想だ。大切なのは、心と体が喜ぶ食事。伝統的な発酵食品や旬の素材にもっと目を向けて。」

地球、自然、生命といったスピリチュアルな単語を用いて訴えかけようとしているのが分かる。が、根拠は?と言われるとイマイチ分からない。これまた ChatGPT 先生に聞いてみる。

「自然科学批判の立場の人になり切って、「根拠は?」と言われた時の反応を考えてください」

自然科学批判の立場の人が「根拠は?」と問われたときに、典型的に取り得る反応を考えると、以下のような返答が挙げられます:

  1. 科学への懐疑を逆利用する 「根拠を求めるのは分かるけど、科学がいつも絶対に正しいとは限らないよね?過去には『安全』だと言われたものが後に危険だとわかった例もある。たとえばDDTやアスベストみたいに。だから、科学的根拠だけに頼るのは危険じゃないかな?」

  2. 経験的知識を強調する 「根拠というなら、何世代にもわたって伝えられてきた私たちの伝統や経験がその根拠だよ。科学の実験室で得られた短期的なデータより、何千年も続いてきた生活の知恵のほうが信頼できると思うけど。」

  3. 科学の限界を指摘する 「科学の根拠って、結局は狭い条件下でのデータに過ぎないよね?人間の体や自然の複雑さを完全に理解できると思うほうがむしろ傲慢だと思う。現代科学が解明できていないことがまだまだたくさんあるんだから、根拠なんて言葉で全てを片付けられないよ。」

  4. 直感や体験を重視する 「根拠がなくても、自分の体は自分が一番分かる。たとえば、添加物が入った食べ物を食べると調子が悪くなる人だっている。そんな個々の感覚や経験は科学で簡単に測れるものじゃないでしょ?」

こういった返答は、科学に対する懐疑心や個人の経験、伝統への信頼を基盤としており、論理的に完全ではない場合でも、その人の価値観や信念に基づいています。このような立場に対しては、感情や文化を尊重しつつ、丁寧に対話を進めることが効果的です。

本当にそれっぽい。いかにも信じそうになってしまう。しかしよく考えてみるとあんまり根拠にはなっていないことが分かる。(根拠という単語の定義も曖昧なので難しいけれども) 具体的に指摘していくと長くなりそうだから、やめる。


特に健康に関しての事柄は非常に注目を集めやすいということもあり、直感的に理解できる内容がバズりやすく広まりやすいという現状がある。その内容の科学的裏付けの有無を問わず。良く分からないけど効能があるらしい水を笑っている人も、実は科学的根拠のない情報に知らぬ間に踊らされている可能性だってある。ボク自身も踊らされていないとは言い切れない。し、実際いくらかは踊らされているんじゃないかとも思う。

でも自然科学批判には乗るまいとしている。自然科学は、ある意味メタ的な視点、つまり自己誤り訂正能力を持っている。自然科学は確かに間違ったことを発見してきた。例えばニュートン力学は非常にミクロな視点では成り立たないということをアインシュタインは発見した。(発見したというよりは、成り立たないとした方が上手く説明できた、というのが正しいか) ある意味ニュートンは嘘をついたと言えるかもしれない。逆に言えばマクロな視点ではよく成り立つ。それは多くの科学者たちによって確かめられてきた。

「論文にはよく嘘が書いてある」と言う人もいる。確かに正しい。だからと言って論文が信じられないというのはおかしい理屈ではないだろうか。分かりやすい反論をするとするならば「本も間違ったことを書いてあるし、新聞もWebも間違ったことを書いてあるので、何も信用できないですね」とでもなるだろうか。すこし皮肉が過ぎるかもしれない。

批判すべきは論文ではない、間違った論文だ。(間違った論文も大きな意味では批判すべきではないと思うが) そのために有名な会議 (いわゆるトップカンファレンス) には査読というプロセスがある。ちゃんとした会議で全くの的外れの論文が載ることはおそらくないだろうから、そういうところから引っ張ってきてもらいたいところである。(そもそも論文を批判する人がまともに論文を読んでいるとも思えないが)


書き散らしていたら思ったより長くなってしまった。あんまりこの記事を大きな声で拡散するつもりはないが、世の中にもっと自然科学的な考え方が浸透することを願っている。切に。