推し活が一般化して久しい。
ただ、人としての正しさを求められる全盛時代に、自分の推しがなにか不祥事を起こすと自分のこれまでを否定された気分になり、沈んだり、ときには恨みや怒りの感情が芽生えてしまうとのこと。
不倫、ハラスメント、裏アカ、、、。不祥事の暴露はSNS時代に切っても切り離せない。
ただ推されるような人は、聖人君子ではなくただの人間であり、多かれ少なかれ切り取られれば不祥事として成り立ってしまうことをいくらでも行っているはずだ。ただ自分の中での推しへの気持ち、いや愛が高まりすぎると、それすら忘れてしまう生き物である。
一方、インターネットの発達によって、推しは多様性を高め、自分にだけの推しが生まれやすくなった。”みんなの”推しではなく”わたしの”推し。わたしのアイデンティティが推しによって見出される感覚は決して分からないわけでもない。
ただ推しは推されるために活動しているのであって、光あれば闇あり。世間の声と向きあう義務とリスクはつきまとう。
新しい推しを見つけるのは行動をすこし変えれば決して難しことに気づいてほしい。
俺よ。いちいち傷つくな。誰を推してもお前には関係ない。お前の人生を生きよ。
書きはじめに考えていたことから大きくそれてしまったが、それはそれであとで読み返すのは面白そうだ。残しておこう。
まとまりがなくてすみません。