0215穂村弘『きっとあの人は眠っているんだよ』

cutmynail
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普段日付を意識せずに生きているので(私の生活が「生きている」といえるかは別として)、この前の記事からもうこんなに経ったのかと毎回思う。こういうことを感じるために日記を書いている気がする。指の隙間からこぼれおちていく時間を思い出すため。

数日前にスターレイルに新しいマップ「ピノコニー」が追加され、久々にやってみるとなんとなくすべてのクエストを消化したくなり、ここ数日原神よりも熱中してやっていた。原神ほど真剣にやろうという気持ちはないが、ボスが倒せなかったりすると悔しくてキャラクターに一番合う遺物を検索したりしてレベル上げする。

原神は海灯祭が終わって虚無期間だ。ナヒーダのレベルを90に上げるための素材集めやひたすら聖遺物厳選。頭が冴えているときとかはマップの探索度を100%にするために宝箱探しもするけど、2,3日前に生理がきてからぼーっとする。

それにあんスタのバレンタインイベントとツアーイベントが始まったので休むまもなくゲームをしている。それに最近無料で公開されている「奇天烈相談ダイヤル」というゲームが面白くて熱中してしまった。

スターレイルのバトルをオートモード→あんスタのAPが溜まったら一曲叩く→APが溜まっていないときは「奇天烈相談ダイヤル」で怪異を探し当てる→しばらくして原神の樹脂が溜まったら素材集め

これの繰り返しを朝から夜までしていると一瞬で日付が変わっている。これではいかんと思ってこのサイクルの中に読書を入れてみた。

数年前にTwitterで誰からか匿名で送ってもらった穂村弘の『きっとあの人は眠っているんだよ』という本を読み終えた。

小説とか学術書ならゲームのバトルオートの合間に読むのは難しいが、これは著者の読書日記なのでブログを読む気分で読破できた。

穂村弘といえば、『花束みたいな恋をした』のヒロインのセリフで「アタシ、穂村弘の本は全部読んだくらい好きで!」みたいなセリフがあった、あの穂村弘だ!それ以外私は穂村弘について知らなかったので、小説家だとばかり思っていたら、どうやら歌人らしい。

そもそも私は現代の本というのを全然読まない。というのも、本というのは毎年大量に売られるが、100年後まで残っている本はなかなかない。悪本は淘汰され、「名作」と呼ばれるものを読むのが一番手っ取り早く「文学」を理解できるのではないかと、中学生の時に思いついたからである。

これは「なぜ本を読むのか」という答えが人それぞれ異なり、私にとって読書はあくまでも「自分の創作(=頭の中の妄想)に生かせるものを摂取するための行為」であって、つまり絵がうまくなりたいからゴーギャンやピカソの模写をしているようなものだからだ。高貴な文章を書きたいから堀口大學訳を読んだり、平坦だが心に残る話の書き方を知りたくてケルアックを読んだりしている。文語体の文章を読んで、「へえ、ベビーパウダーは天花粉っていうんだ」とか「勉強」する。こういう点で、SF小説は変わった文体が多いので、結構現代作家も読むようにしている。どこまでも利己的な読書である。

うってかわって著者の穂村弘は純粋に読書を楽しんでいる。古本屋で無名な作家の本を買ったり、気に入った本は繰り返し読み、漫画や歌集や詩集、なんでも手にとって読む。しかし冗長なプルーストや埴谷雄高は読まない。あくまでも読書は娯楽なのだ。

私は読書を楽しいと思ったことがあっただろうかと思い返す。最後に思ったのは中学生の時に夢野久作や太宰治を読んだときや、18歳のとき失恋した帰りの電車で泣きながら読んだ石川達三の『悪女の手記』とか・・あれはたしかに「純粋な」読書体験だったが、片手で数えるほどのような気がするなあ。

ほとんどの読書は私にとって「お手本の教科書」なのだ。だから読書は楽しいとかいうより緊張するし、読んだあとに自分の実になっているか不安になる。ビジネス書でもないのに。

今まで読んだ中で「こんな文章が書けたらなあ」と思ったのは、(夢野久作を除けば)悔しいがやはり村上春樹だ。村上春樹の作風自体は、女性蔑視的な部分が強くて不快になることも多いが、同じ日本語でもこんなに文章がおしゃれになるのかと驚く。なんというか、ヨウジヤマモトとかマルタン・マルジェラをうまく着こなしている人を見たような気分になる。だから売れるのは当然だと思う。でも、作風自体はやっぱり、欧米人の真似ごとのような気もする。(最近の村上春樹は全然読んでいないので、あんまり語ることはできないが)

同じように文章に驚いた経験は、倉橋由美子の『聖少女』『酒郷譚』どちらも理想的な文章だ。

森茉莉もお手本にしたいが、まだ読めていない。

積読本の消化が結構うまくいっている。去年はメンタルが限界で全然本が読めなかった。私は自室に未読の本だけを入れている本棚を置き、読み終わった本は階下の和室の本棚に入れるようにしている。その本棚に読破した本を入れるときになんともいえないすっきりとした気持ちになる。本を読了するという掃除を終えたような気分になるのだ。