0127-28『哀れなるものたち』怪文書展・睡眠

cutmynail
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午前起床。少々早く起きた。ゆっくりと化粧をして服を着替えて外に出る。

この前の京都のときより暖かい。やはり今年は暖冬のようだ。

なんばの高島屋に行きハーブティーを買う。本当はハーブだけ買って調合したいが、たいていはティーパックになっている。調合用の薬草はネットの通販のほうがよさそうだ。

なんばTOHOシネマズに着き、友人と待ち合わせる。チケットを発券してしばらく待つ。スパイファミリーの劇場版が放映していたようでオタクっぽい人たちがちらほらいた。ポップコーンを買い劇場に入る。

午後14時20分の回で『哀れなるものたち』鑑賞。『女王陛下のお気に入り』を見たのがついこの間のようだと思っていたが、もう5年も経っていたらしい。ベラの美しい衣装、エマ・ストーンの一切の無駄な贅肉のない美しい肢体と、それに見合わない赤ん坊のような舌っ足らずな英語、絵画のような街並み、そして、映画全体を通して脈々と流れる生への賛美。

ベラは自分の赤子と脳を入れ替えられた生まれたばかりの女性だ。だから、娼婦になることが恥ずかしいとか、隠すべきものだというような「一般的常識」などない。私は、なぜ女性が娼婦であれば恥ずかしいのかということを鑑賞しながら考えていたが、最初に浮かんだのはやはりマグダラのマリアのことだった。

娼婦というのは恥ずかしいことだ、だからマグダラのマリアは数十年もの間暗く質素な洞窟の中で改悛の日々を送った。しかし、なぜ恥ずかしいのか?それは、キリストを中心としたキリスト教の教えがあるからだ。そして、キリストは男性であるので、女性が優位になるような教えは説くはずもない。女性は慎み深く男性を支え、自分の性欲を公にすることなどなく、ただ家を守るという価値観に、キリスト教の考えが深く影響していることは、誰も疑う余地のないことだ。

衣装と同じくらい音楽の美しさにも魅了された。ジャースキン・フェンドリックスというミュージシャンの既存の音楽を使用したそうだが、最初は奇妙で不安をかきたてるような音、そしてベラが人間性を獲得していくにつれ、その不気味な音はだんだんと美しい旋律に変貌していく。映画館でこの音楽を聴けてよかったと思った。

映画を見終わって心斎橋OPAに行き、人気のホラー作家が手掛ける『その怪文書を読みましたか』展に行った。

Xにも書いたが、私はこの怪文書に関するホラー作品に、興味を持ちながらも、これをただの娯楽作品にしてよいのだろうかと思った。身体障害者を見世物にできなくなった昨今で、なにが見世物になるかと大勢の大人たちが話し合い、怪文書を書くような精神障害者は恐ろしいから、それを踏まえたホラー作品を作ろう、という考えに至ったのであれば、そこには一欠片の倫理観もない。故青山正明が『危ない一号』で奇形児特集を組み、「親不孝な子どもたち!」などと大きく見出しを打った90年代とどう違うのだろう、と思う。

しかし、これを規制すべきだというような気にもならない。多くの人にとって未だに精神障害者は差別の対象であり、それがなぜかといえば、彼らの多くは障害故に他人への加害性があり、つまるところ「かわいげがない」のである。「かわいげがない」人間にも平等に福祉はいきわたるべきだが、娯楽作品にまで「精神障害者を恐怖の対象にしている」というようなことを書けば、ホラー映画やホラーコンテンツはほとんど消滅してしまうだろう。しかし、その精神障害者が「書きそうな」電磁波攻撃や幻聴、誇大妄想などの類の文章を健常者である作家が書き、それを展示会に訪れた人々が写真に撮って「なに、意味がわからないこと書いてるよ」「何を言ってるの、変だね」などと口々に言い合って笑うのは、まるで精神病院の体験ツアーに訪れた観光客たちを見ているようでもあった。

友人と展示会を出てシーシャ屋に行き、8時半過ぎに店を出て駅で別れた。帰りに近所のスーパーに寄ってパンをたくさん買った。なにを買えばいいかわからなかった。同じパンを3つずつ買う。

家に帰って映画のことや展示会のことを考えていると時間が経ち、疲れもあって薬を飲んで眠った。とにかくたくさん寝たかった。なにもかもが恐ろしい夢のような気がした。

0128

午前11時頃起床。もっと寝たいと思った。しかし中途半端に目が覚め、原神でデイリーと樹脂消費をして電源を切った。午後1時前だった。頭が重く眠かった。上着を着てスーパーに行き、パンとジュースを買いこんだ。

アンダーテールのゲーム実況を見る。仮眠をしようと薬を飲んで寝ようとするがうっすらとずっと意識がある。

あんスタをする。布団から出るのも疲れるのでスマホのソシャゲばかり捗る。そうこうしているうちに夜8時になっていた。

読書をしようか、昨日買った『哀れなるものたち』のパンフレットを読もうか、ぼーっと考えている。自分の作業もしたいが‥

気分が落ち込んで「クィア・アイ」の続きを見る気も起きない。クエチアピンを多めに飲もうかと考える。

ひどく悲しいこともなければ、飛び上がるほど嬉しいこともない。人生はこうあるべきだとずっと考えてきた。緩慢な自殺を長い間続けてきた。私はベラのように人生を冒険したいとは思わない。多くのことを経験すれば思慮深い人間になれるというのは、映画が見せる優しい嘘だ。本当の人生は、苦痛が多いほど人間は意地悪で陰険な性格になっていく。

私はたくさん眠りたいだけだ。睡眠はお金もいらない、他人も必要としない、自分の世界の中にいて、傷つくこともなく、いつまでも時が進むこともない。