0227 他人との境界線

cutmynail
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用事があったので午前中に起きる。そうでなくても最近は寒くてはやくに目が覚める。

今日はたくさん化粧に時間をかけようと、顔を洗って丁寧に化粧する。

化粧は好きだ肌に一つ一つ液体を塗り、色をつけて、他の自分になれたらと願う。

自分のことが大嫌いだと公言するには、自己愛が強すぎる私は、化粧をした自分だけはまだ、好きな方だ、と思えるようになりたい。

カレーうどんを食べて外に出る。電車に乗り、京都へ向かう。

ネットで調べたシーシャ屋に行く。京都は雨がふっていて息が白くなるほど寒い。

京都のことが年々嫌いになる。嫌な思い出が増えていく。

大人になるというのは嫌な記憶が増えていくことだと思う。純粋で、ただ誰かを好きだったとき、芸術を愛していた頃が懐かしい。硬直した冷たい路傍の石のような心が、硬くなり、他人を拒むようになる。

外に出ることは傷つけられることだ。安全な家の中にこもり、他者の存在を忘れ、自分の世界に深く落ちていくこと、それは母胎に戻ること。なぜ母胎から生まれ、傷つく運命のなかに自分がいるのか。母はなぜ私を産んだのか、いや、なぜ「私」が産まれたのか?人生のあらゆることが、「私」でない別の、強い精神と、傷つくことを厭わない人間に肩代わりできたらよかった。

シーシャ屋の中で寒さにふるえ、夕方になって予約していた店に行く。

運動不足を解消しようとバスに乗らず20分ほど歩いただけで、倒れ込みそうになる。それは疲労からではない、実存的不安に飲み込まれたからだ。

いつか死ぬこと、死は映画や小説のワンシーンではなくて、必ず「私」が経験すること。殺されるかもしれないし、病のうちに苦しんで死ぬかもしれないし、幸運であれば、眠るように無へ還る。

叔父が死んだことを思い出す。叔父はもうこの凍てつくような寒さを感じることはない。死んでいった人々。自分からこの世から退場していった人もいれば、病苦のうちに死神に連れて行かれた人もいる。

「死んでいる状態」と「今生きている」ことの、どちらがマシだろう?死は意識を失うこと。もう何も考えないこと。

死が海に還るようなものだという人もいる。

私はそれは嫌だ、と思う。私は他者と分かち合えない。他者は常に居心地の悪いもの。なのに永遠のような「死の状態」を他者と溶け合っているなんて、考えられない。

けれど宇宙空間に一人ぽつねんと放り出されるのかと思うと、それも恐ろしい。私は他者を求め、他者の違和感のもとに自分を投げ出してみたい、と思う。

店を出る。ATMに寄ると預金が少なすぎてくしゃみしそうになる。

kemioのYouTubeを見ていると、「他者との境界線」について話していた。

「境界線」とはなんと孤独な言葉だろうと思う。

他人と適切な「境界線」を持つことが、健康な精神であるというのが心理学の基本らしい。

私はこの考えに納得しながらも、心では否定したくなる。

愛する人がもしいるなら、自分の境界線など飛び越え、チョコレートのように混じり合ってみたい。すべてを肯定されたい。もうさみしくない、だって、君は「個人」ではなくて、「私ともう混じり合っている、2人分の存在なんだよ」と言われたい。

私は大勢の、すべての死んでいった人々のエキスになるより、誰か一人に私のすべてを押し付けたいだけなのかもしれない。

人混みは嫌い、だけど誰かと手を繋いでみたい。境界線が曖昧になりいずれ無くなるまで。

だから私は「境界性人格障害」という病名をつけられた。