他者への理解について

cutmynail
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昨夜はなかなか寝つけなくて、つれづれなるままに日記のようなエッセイのような、くだらないたわごとを書き溜めていた。

昔なら間違いなくすぐにポストしていたけれども、今は「この文章には問題がない」と思うまで、誰にも見せないことにした。

その基準というのは、文章の正しさや美しさではなく、他人に見せるべきものなのか否か、ということだ。

私は過去に、「他人に理解されたい」と思い、いくつかの自己表現を試みた。

音楽、茶道、絵、執筆、演技‥それ以外の思い出せない些末な活動。(そう‥政治活動であったり‥労働運動‥‥)

演技することは好きだったが、映像や舞台は一人では完成しない。もちろん一人舞台という手もあるが、それでも場所を借りたり、照明係や受付やチケットのもぎりなど、他者を雇ったり、頼らなければならない。何もかも一人でやってしまうと、最も集中するべき部分、つまり演技そのものの質が下がってしまう。

そして音楽‥私の場合はピアノだったが、これも音楽家に師事しなければならないし、茶道も同様だ。芸事は師匠という存在がいて、直接目で見て、教えを乞うしかない。

私は他者から距離を置きたかったが、それでいて自己表現を行いたいという矛盾した感情のなかで足掻いていた。

自分の部屋の中で、ひとりきりで、自分を表現できたらと思っていた。

絵と文章だけは、独学が可能だ。そして、私淑ということができる。つまり、死んだ人間(生存しているが会うことの叶わない人であっても)の遺した絵を模写する、死んだ人間の文章を写生し、構成や組み立て方、よりよい言い回しを学ぶことはできる。

だが、だんだんと私は、その両方からも離れていった。

私は自己表現をしたいという感情を喪っていった。

そもそもなぜ、自己表現などという、手間のかかる自慰を行っていたのか?

かろうじて、苦し紛れであっても、社会と繋がりたいと願っていたからだろうか?

私はようやく、自分を理解してほしいという、根源的な、そして非常に人間的な願いは、終ぞ叶うことがないということがわかった。

私が、他者を理解できないように、他者も私を理解できない。無意味で、徒労なことだ。

荒れ地に穴を掘り、なにか埋まっていることを期待する。ちょっとした砂金であってもいいと願う。しかし、穴の中には空洞しかない。砂金どころか、気の滅入るような深淵しかないと幻滅し、もう穴を掘る気力を失って、シャベルを置いたというだけの話だ。

この人ならわかってくれる、というような淡い期待を持つことは、結局後々になって惨めな結果しか返ってこない。

他人を理解できない。何を言っているのか一つも理解できない。他者が私に何を求めているのかわからないし、他者が世の中に対して何を渇望しているのかも。

物質は裏切らない。コーラはいつも喉ごしがいいし、アンパンマングミは腹持ちが良い上においしい。物質は理解できる。そして常に変わらない。

私が何を望まれてここにいるのか、もしくは何も望まれていないが、ただ存在しているだけなのか。それは私を産んだ人間がそもそも理解していないのだから、私にも理解が及ぶはずがない。

今、すばらしい映画を見ている。けれど数十分に一回ごとに休憩して、ベッドのなかでじっと目を瞑っていなければならなくなった。この近所には誰かが住んでいるはず(だって、そこらじゅうに家があるから)なのに、なんの音もない。遠くで車が走る音がかろうじて聞こえるだけだ。

羽毛布団を頭までかぶると本当に無の世界にいける。音もなく光もなく、自分の呼吸する息遣いだけが、その息のなまあたたかさが布団の中をよりあたかかくする。

この文章も誰かに読ませるものではないと思う。それはこの文章を誰も理解できないからではなくて、本当にこの文章にはなんの意味もないからだ。何もかも無意味だが、意味のあることのほうが、この世にはないということも、わかる。誰かを愛することも憎むこともなく、呼吸するだけの時間が、あとどれだけ続くのか、神というものが在るとするなら、神はそれを知っていて、私にまだ息をさせるのか。

これを読んだ人間はきっと、私のことをとてつもなく、エゴイスティックで、独善的で、自己愛が強いと感じるだろう。本当はそんなことはないのだが、他者同士が理解できない以上、そのような言葉は、無為な言い訳にすぎない。