0210-11熊野寮文芸市場・山尾悠子『ラピスラズリ』

cutmynail
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午前に起きた。ゲームをしていたら今日熊野寮で文芸市場があるというポストを見かける。こんな催し物を以前からやっていたのか知らないが、行こうかとても悩んだ。

生理前で憂鬱だし、しかも寒いので、家にいるべきかと思ったが、所属しているサークルも出店するらしいので、体力づくりがてらに外にでることにした。風呂に入り京都まで行く。

午後4時すぎについて、久々に熊野寮に入る。最近は熊野寮の寮費が上がったので大学側と揉めているようだ。

熊野寮に初めて訪れたのはもう何年も前だが、隙間風で寒くてたまらないところは何も変わっていない。こんな劣悪な環境でも許されてきたのはひとえに寮費が安かったからだろう。

文芸作品や歌集、絵本を売る人などがいる。小さい古本市があったのでヴィトゲンシュタインの本を100円で買う。所属しているサークルに行ってみたら、代表のH氏ではなく、新入りの子が店番をしていた。挨拶をしたら「座ってもいいですよ。客もいないので」と言ってもらえたので店のスペースのイスに腰掛ける。隣のサークルに目をやると、なんだか顔の知っている男が座っている。

私は恋愛関係をうまく築くことができないので、恋人関係になってもたいてい数ヶ月か半年以内にお別れするため、いつ誰と付き合っていたか思い出すことが難しい。しかしたしかにその男は何年も前に恋人だった男だった。ゲッと思った。なぜいるのか不思議だった。彼と交友関係があったのが何年のいつごろだか詳しく思い出せないが、たしかコロナ前であることは確実なので、とっくに卒業していると思ってもう顔を合わせることもないだろうとたかをくくっていた。たぶん留年したのだろう。彼もこっちに気づいたようだが、ひどい別れ方だったのでお互い気づかぬふりをした。

また、舌っ足らずな女の声がしたのでふりむいてみると、バイト先で私にパワハラを働いていたフェミニストの女が出店している。その女だって私とさほど年齢が変わらないからとっくに卒業しているはずだ。パワハラを見かねた同僚が注意してくれて彼女からの罵倒はなくなったが、彼女と会話することもなく、上司も嫌いにだったのでまもなく私はバイトをやめた。あんな女が「女性の連帯」などとほざいているのをネットで見かけるたびにつばをはきかけたくなる気分になる。女の方も私に気づいたようだが、やはり同様にお互い気づかないふりをしてやりすごした。

京大はこんな風にとっくに卒業しているはずの人間が何年も(人によっては何十年も)定期的に足を運ぶ奇特な学校だと思う。

私は所属サークルの知り合いがいて救われた気持ちで、イスに座って持ってきていた本を読んでいた。すると7時からコンパがはじまるというアナウンスがあった。寒いし暗いので帰ろうかと思ったが、H氏が仕事終わりに寄るというし、食事がでるらしいので7時まで待った。

コンパがはじまると畳の上で酒盛りがはじまった。酒を何年も飲んでいないので最初は水を飲んでご飯を食べていたが、9時ごろにはすっかり酔っていた。知らない人と話したりするのは本当に久しぶりだった。楽しくなってもっと酒を飲もうとして飲み物置き場に行ったが、もう一缶も残っていなかった。10時頃においとまして帰った。知らない人たちも話しかけてくれて仲良くなれたが、名前を聞くのを忘れたりして、こういう一期一会の縁が惜しい気もしたが、どうせ寮に行けばみんないる気がする。しかし別に今後寮に行く予定はないので、もう会うこともない人も大勢いるだろう。遠出は疲れる。帰って睡眠薬を飲んだらいい気持ちになって知り合いに電話をかけたが、寝てしまった。何を話したのだかまったく思い出せない。

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午前に起きた。ゲームをして、ちょっと一息ついてから山尾悠子『ラピスラズリ』を読み終えた。

幻想文学というのは本当に読みにくい。これまでは、純文学であっても、何かしら批評性があるものばかり好んで手に取ってきたし、たとえ内省的な小説であっても、社会におよぼした影響や、あるいは政治体制に対する風刺・反抗、作家が構築してきた思想などを読み取ることのできるものが、よい小説であると思ってきた。

だが幻想文学というのは、政治性のないまことに純粋な娯楽小説である。その上、この本は何を言っているのだかまったくわけがわからない。最初、主人公が画廊に行き銅版を見る。そこから銅版の中の架空の世界の話がはじまる(主人公はたちかわり変わる)。だが登場人物はまったく意味のあることを話さず、「あなたはばかね」とか「わたし、眠いわ」というようなことを言うだけである。そして最後に実在する聖職者の視点になり、その弟子は「ぼくはキリスト教に救われた」というようなことを言って終わる。

昔、森茉莉の『甘い蜜の部屋』を途中で挫折したのだが、そのときのような気持ちになる。文章は瀟洒だがそれ以上になにか汲み取ることが難しいのである。『甘い〜』はまだ一応地の文の説明があるのでなんの話をしているのかは理解できるが、『ラピスラズリ』は説明がないので余計に困る。また、私が思い出したのはボルヘスの本である。私はボルヘスが非常に苦手で、『伝奇集』だけ読んで、何も理解できなかったが、それは彼がアルゼンチンの作家で、私の親しみのある文化とまるで違う国の人間の書いたものだから理解できないのだと思っていた。しかし山尾悠子は日本人だからある程度自分と同じ社会規範の中で育った人間のはずなのに、なにを言っているのだか、何を伝えたいのだかわからないので非常にむずかゆい気持ちになる。

別に小説というものが説明的であるべきだとは思わない。映画も難解な作風の監督がたくさんいるし、そういう純粋な娯楽作品が豊富であるほうが、よい社会だと思う。しかし何を言っているのだかわからない本というのはとつぜん出会うと面くらうものだ。今まで政治性が強く、作家の伝えたいことがダイレクトに伝わる本ばかり読んできたツケが回ってきた。これを気に稲垣足穂なども読んでみるべきかもしれない。

今手元にあるのは村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』(すぐ読めるので積読消化にはよい選択)、ウェルベック『地図と領土』(ウェルベックは読んでいると眠くなるのであまりよくない選択)、昨日買ったヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』(アフォリズム集なので読みやすいだろう)、『稲垣足穂全集』、吉屋信子『花物語』(分厚いので本棚のスペースを圧迫している)、そしてずっと放置しているブローティガン『西糖瓜の日々』だ。どれを読むかは気分次第だが、とにかく積読を消化して本を移動させたい。

アーレント『エルサレムのアイヒマン』は継続して読んでいる。