モース「贈与論」再考:贈与経済における搾取について(作成中)

さいばー・ちーず
·
公開:2023/11/27

近年の世相を受けて、モース「贈与論」をいまさら読み返している。

「贈与論」をはじめて読んだときに受けた違和感を今なら言語化できるような気がして作文を始めたのだが、どうにも私の筆力では上手くまとまらない。かといって本格的に執筆だけ集中して向き合うような生活でもない。

せっかく「書き散らし」用のサービスに触れているので、実験も兼ね、このテーマでしばらく徒然なるままに書き、後からまとめるというやり方でひとつ書いてみようと思う。

タイトルなども含め、予告なく改稿されることがあることを付記しておく。

--------------

贈与論について

モース「贈与論」は、貨幣が発明され経済取引の主役となる以前の取引形態である「贈与」をはじめて本格的に研究し、社会学的・人類学的研究の礎石となった。社会学者のみならず、非常に多くの人間に影響を与えた。

当時の社会学にありがちなスタイルとして、単に学問的な事実認識の更新に注力するだけでなく、著者の価値判断を全面的に押し出してくる。雑に還元すれば、「すべてを金銭的価値と商業規範に還元する現代の資本主義は非人間的、もっと昔みたいに様々な道徳的規範を経済取引のルールに埋め込もう」というものだ。

モースは社会主義者であったが、とくに非暴力の観点からマルクス主義に基づく階級闘争論や暴力革命には否定的であり、かわって「道徳的な市場のルール」を設計しようという発想をもつ。この方向性はコミュニティ設計やビジネスの観点からも人気があり、今なおよく参照される学者である。

(11/27/1回目) ---------

私がこの本を読んだのは大学生のころ、友人の強い勧めによる。彼も社会問題に関心を持ちつつ、さらにそれをニーズとみて新しいサービスを提案、企業などに繋げようという発想を持っていた。

私も、贈与が実際には個人の自由意思による独立したものではなく、反対給付や相続、呪術や報復などを含む複雑な取引の一部であるという発想や、ポリネシアやメラネシア、アメリカ北西部の例、さらに古代の法に及ぶ分析には興味を惹かれ、それなりに面白く読んだ。

しかし、モースが最終章において、これらの古い道徳原理をもと制度設計することで、資本主義の「非人間性」に対抗し、資本家の独占を抑制し、労働者の社会への信頼も高められる、そして社会の冷淡化は緩和され、諸国民は幸福になる、というヴィジョンを情熱的に語った時、なにか危うさを感じた。また、その本の他に多くの「贈与経済」に関する知見を提供してくれた友人に対しても同様だった。

彼らのビジョンはこうだ。現代の資本主義は、すべてを利潤と経済的価値の計算に還元する非人間的なものであり、この水準でものを考える限り際限なく搾取と疎外、社会の冷淡化が進行する。とはいえ、生産資本の私有禁止や共産革命のようなラディカルさや暴力もまた危険であるから、あくまで資本主義の内部ルールに「人間的」なルールを埋め込むことで改善を見込む。その原理のひとつが「贈与経済」だと。

なるほど簡潔で説得的、ラディカルさも抑えられ現実性も感じられる。良いヴィジョンではないか?

だが私には全く腑に落ちなかった。

そもそも、搾取や疎外は「非人間性」から来るのだろうか?そして、贈与経済という形で、人間の直観的な道徳、生まれつき持つ利他性、家族や同胞や自然や超越的な何かを愛する心を法律に埋め込み、「人間的」なルールを制定しそれを守れば、搾取はなくなる、そこまで行かなくても多少は緩和されるのだろうか?

当時の私は、その疑問を友人には伝えなかった。ちなみに私と疎遠になったのち、彼は関連するwebサービスの立ち上げに関わり、なかなかの成功をおさめたようだ。

それはともかく、時が過ぎ、当時の疑問に一つの結論を出せる程度には理解が進んだと思う。

「否」だ。

搾取の原因は「非人間性」ではない。そして、贈与経済という形で「人間性」を資本主義経済に埋め込んでも、搾取は緩和しない。それどころか、ほとんどの場合、むしろ搾取を促進したり、搾取の根本原因となる場合すらある。

(11/27/2回目) ------------------

とはいえもちろん、強く注意しておきたいのは、私は全面的に贈与経済の発想を否定したいとか、贈与経済をなくすべきだと主張しているわけでは全くない。

そんなことはまず不可能だし、資本主義の搾取を止めようと、生産資本の私有禁止やプロレタリア独裁を行った共産主義者よりもさらにラディカルな発想といえる。

モースも、のちの学者も指摘する通り、贈与経済を駆動するものは、人間が生得的に獲得している直観や公平感、および歴史的に受け継いできた多様な文化からなり、それらを破壊することは人間性を破壊することに等しい。やろうとしても碌なことにはならないだろう。

だが同様に、「人間性」を過度に称揚し、「非人間的」な資本主義の問題の解決策を資本主義ではないものに求めるあまり、贈与経済をそれより優れた方法であるかのように語るのは全くの間違いだ。

贈与経済は、資本主義経済と同程度に搾取の温床であり、そのハイブリットも同様で、しかも大抵の国で資本主義経済よりも規制されていないため、結果としてはむしろ重大な搾取につながることが多い。

よって主題としたいのは、贈与経済における搾取とは典型的にはどのようなものか、また資本主義経済に対する種々の規制や労働運動のような現実的な対抗策はありうるのか、の二点だ。

(11/27/3回目) ------------------

贈与経済と資本主義の結びつきに対する批判について 

先行研究は当然ある。だが、下に見るように、私の主題としたいこととは微妙にズレている。これらは贈与経済が資本主義経済に組み込まれた時の、資本主義側の問題点を指摘するのにとどまっている。

ハーバード大の社会心理学教授ショシャナ・ズボフの『監視資本主義』は、贈与経済的な無料SNS上のやり取りが人間の行動予測制御のための商品となっていることを警告する。シェアリングという共同的な発想が、UberやAirbnbのように実装され搾取的な巨大資本となることを指摘したのがニック・スラニチェク『プラットフォーム・キャピタリズム』だ。ほかにも、クラウドファンディング、クラウドソーシングのような贈与的なシステムが、webサービス化されることで不平等な報酬分配や搾取に結びつくことを指摘する議論もある。

結局のところ、方向性は似ている。必ずと言っていいほど「本来良いものだったはずの贈与経済が資本主義と結びつくことで搾取的になってしまった」という筋立てになっている。

これは分かりやすいロジックであることは確かだ。資本への規制は(実効性はともかく)結論として提唱しやすいし、経済的搾取は被害の実態を定量化しやすく、客観的な批判の対象としては適当だし、それはそれで重要だろう。

だが、やはり納得いかないものがある。

どう考えても、贈与経済は、それ単体で、資本と結びつく前から搾取的な取引を多く含む。ゆえに資本主義経済取引と同様、それ自体批判すべき対象であるにもかかわらず、資本主義経済と対置されるシステムとして導入されたため、なされるべき批判から逃れてきた。

だが、実際に批判を行おうとするとなかなか難しいものがある。モースが指摘した通り、前近代的な小規模社会の贈与経済すら、高度に複雑でとらえがたい。

資本主義経済は複雑な経済システムのうち、貨幣や財といった物理的実体のあるものにのみ注目している。一方、贈与経済において最も重要な媒介物は感情、とくに義務感、互酬感情、仲間/敵対意識、呪術的信念、といったものである。それらは現代人の中にも確かにあるはずなのだが、測定や定量化がとにかく難しい。

ここまで書いてきてあらためて気づいたことだが、我々が資本主義経済を「不平等」とか「搾取」だと批判するとき、その感情的な基盤、平等性の根拠も贈与経済的な発想に基づいている。ディーセントワーカーの低賃金に憤るのは、共同体に必要不可欠な仕事という「奉仕」をしている人々が「報われていない」という発想だ。その賃金が自由市場的な意味で公正に決まっているかどうかはあまり本質的ではない。

この考えを延長すると、贈与経済を贈与経済的な発想で批判するのは、ある文化圏から別の文化圏を批判するような、水掛け論的な方向に向かっていきそうな気もする。あるコミュニティの内部規範が別の規範に違反していたからと言って、それがどの程度批判として効力を持つのか?

人文学は批判の基準となる普遍的な価値観として人権、公平、自由、平和といったものを探求してきたはずだが、それらの「普遍性」もまた、贈与論レベルでの互酬感情とは根本的に対立することは多い。むしろそういったものにブレーキをかけたりするため導入されたという面も大きい。

だいたい自分の中で問題意識が固まって来たので、このあたりで参考文献を読み直す作業に入ってみる。

(11/28)-----

モース「贈与論」要約と感想

モース「贈与論」はフランス文化人類学っぽく、まずポリネシアやメラネシアなど部族社会の贈与の例をさまざまな文学的修辞で畳みかけるように紹介してくるのだが、そういう面白い部分を削除するとかなり単純で

・一方的な贈与っぽく見えるのは実は彼らの主観では全て「交換」。ただしその取引相手や内容が財物だけでなく、人間や行為そのもので、あるいは「霊魂」「物の魂」のような非実在的なものだったりする。

・贈与する/されることは推奨される。流動性を増すことがいいことで、一周して戻ってくるみたいな無駄な贈与もどんどんするべき。「物の魂」とか先祖の霊とかがそれを推奨してくる。

・しかし贈与は危険で、なぜならお返ししないと罪だから。よって贈与をするのは相手に「罪悪感」「負債感」「魂を取られた感」を与える攻撃のような効果もある。贈られたら後からもっといいものを贈り返さないと負け。魂がとられ、奴隷になり、地位が下がり、気分が落ち込む。

・ポトラッチという「金持ちやリーダーがとにかく贈与合戦・浪費合戦をして負債感で政治バトルをする祭り」のようなものがある。

これ、霊魂とか呪術とかでラップされているが、よく考えるとポトラッチ以外は資本主義経済の取引と言うほど変わりが無い。信用できて定量的な貨幣を流通させる権力や技術などが無いため、相互監視や呪術的な脅しで縛っているだけだ。後から贈り返すものが高いのも金利と思えば同じ。そして単純に取引量が増えると信用が増すのも資本主義経済ではよくあるし、無理やり貸し付けて罪悪感で回収するみたいなスキームだってありふれている。

だか資本主義社会と似たような搾取構造になる。結局、偉い人がただで財物をくれても、返せないから奴隷になるとか、地位が高い人は贈与バトルを1回パスできるとか、さらっと書いてあるが全然平等でも何でもない。

物に魂があり、取引履歴をたどれるみたいな発想はNFTとかの発想の元ネタっぽくてちょっと面白い。しかし冷静に考えて、それで従来の資本主義と何か違うか?と言われると、ただ芸術品にいろいろ説明情報がのってるのと同じな気もする。

ポトラッチはかなり面白い。私見では、「ポトラッチ的なもの」の違いが資本主義経済と贈与経済を分けるカギだと思うのだが、いったんおく。

次に古代ヨーロッパ、インドなど、文明が出てくる。

ここでも色々例が出てくるのだが、前半より分かりやすい。

・贈与は実際には負債を与える呪いみたいなもの。永続する契約で、かならずもらった側は反対方向の義務があり、義務を果たせないうちは罪悪感を負う。

・契約しても呪術は終わらない。もらった側は一生なんらかの影響を受ける。それは物に魂があって贈与した家に所属してるから。

まず古代ローマ。かなり合理的で貨幣経済のイメージがあるけど、それより前には物の魂、負債感情、呪術的な要素は最古の明文化されていないローマ法でも重要だったのだ、というストーリー。つまり、貨幣による取引より前に、部族のように罪悪感とか物の魂がどうたらみたいな発想で儀式的、呪術的な取引をやってましたよと。それが不合理になったころ貨幣が登場したが、史料が無いから推論ですと言っている。まあとりあえず信用しておく。

次に古代インド。これは文献があるのだが、問題はカーストのうちバラモン階級(司祭カースト)の法ばっかりということだが、こいつらは呪術が仕事みたいなものなので、常に贈与を介した呪いみたいなことをずっとやっていて、王族すら呪う。

そして古代ゲルマン法。これはしっかり文献があり、分かりやすいらしい。抵当、担保というような現代法にまで至る概念が出てくる。だがこれらも、単なる経済的な貸し借りではなく、「財物を差し出した方が偉い、義務で返却する側は支配される」という呪術的な要素があると。

後中国とか数例が出るが、どれも同じことを言っている。

ここまで見てくると、なんでこれが資本主義経済の「非人間性」のカウンターになりうるという発想になるのか、意味が分からないレベルだ。

現物を先に差し出したほうが偉い。物を借りたやつは奴隷。持ち逃げするかもしれないから呪いで縛る。一生縛る。嫌だったら早く返せ。

という、むしろ資本主義経済を支える思想と言われてもおかしくない。

資本主義とは違うのは、貨幣ではなく現物を持ってるやつのほうが偉いということ、現物は貨幣を出したからと言って完全に買えるわけではなく、共同体に「魂」的なものが残ること。それぐらいだ。

もう少し後の研究だと、この「罪悪感」とか「義務」とかが定量化されて「債権」「貨幣」になったという説があるそうだ。まあ、物々交換が不便だから貨幣になりました、みたいなのがウソだというのは最近よく聞くようになってきた話ではあるし、それはそれで面白い。

しかし結局のところ、資本主義経済と贈与経済は殆ど同じ「呪術」のルールで動いている。

モノやカネを貸し借りするのはいいこと。ガンガン取引しよう。ただしモノやカネを先に差し出したほうが常に偉い。借りたやつは奴隷。持ち逃げするかもしれないから呪いで縛る。一生縛る。嫌だったら早く返せ。

という、先に持っているものがますます富む、マタイの法則が出現する「呪術」だ。

贈与経済、全然だめじゃん。貨幣じゃなくて現物が主役だとか、資本家じゃなくてバラモンとか部族長が偉いとか、それがなぜ資本主義に比べて「人間的」で「道徳的」なのか?最初に言いだした奴はアホとしか思えない。

まあ、労働者は実物を生み出すから、貨幣を排して現物を偉くすれば資本家に対抗できるとか、そういうナイーブな発想かもしれない。しかし、現に古代インドで一番偉かったのは司祭のバラモンだ。全然労働者じゃない。

ようするに、資本主義経済では「資本家」が取引の媒介物である「貨幣」の流通を担うから一番強いように、贈与経済では取引の媒介物である「呪術、罪悪感、それを利用した契約」を操る奴らが一番強いのだ。

しょうもない。だが、ある種の真理なのは確かだろう。

まあ、唯一違うとすれば、部族社会のほうにあったポトラッチだ。これをちょっと検討してみる。

(11/30)