作り手の意図や物語の構造に振り回されない映画「PERFECT DAYS」の心地よさ

ddd
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PERFECT DAYSを見た。世間が絶賛するほどすごく良いとは思わなかった。けれどしみじみ良かった。冬の日に味噌汁を飲むような感じ。

この映画はスカイツリーのお膝元、墨田区に住む主人公の日常を写している。

朝早く起き、植物に水をやり、公衆トイレの掃除を生業にし、夜は浅草の飲み屋で晩酌をする……。そんなルーティンを何日もひたすら写している。

そのルーティンの合間に、主人公の習慣にない「イレギュラーなイベント」がぽつぽつ挟まるような構成になっているのがこの映画だった。

この「イレギュラー」を描く、その距離感がすごくよかった。

・二十代の女の子とカセットテープを聞く

・放置されたメモ用紙で、顔も声も知らない人と三目並べをする

・公園で昼ごはんを食べるOLと会釈する

・家出した姪っ子と短い共同生活を送る

これらのイベントのどれもが物語を支配しない。主人公の生活を劇的に変える装置になっていない。もちろんなんの伏線にもなってない。そこがすごく気に入った。

例えば普通の邦画なら、姪っ子の家出の理由が語られ、主人公が奔走、問題が解決してハッピーエンド、みたいな展開に収まりそうである。それがこの PERFECT DAYSでは起きない。

出来事は出来事のまま、登場人物は登場人物のまま、問題は解決されないどころか原因すら語られない、人々は物語的役割を果たさずに現れては消える。

ルーティンという大きな湖に、イレギュラーの小石を投げ入れても、波紋はすぐに収まり、水面の濁りもとれていく。(ただし、水底や水の流れは前と全く同じではない)

やたらと“考察”、“伏線回収”という言葉が踊る感想や、「これは監督とスタジオの暗喩だ!」と物語の裏側からしか語らない分析……そういうものに飽き飽きしている自分にとってPERFECT DAYSはうれしい映画だった。

監督のヴィム・ヴェンダースが公式動画でさまざまなことを語っていて、それもすごくよかった。

以下、公式のインタビュー動画から引用する:

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「私たちが脚本を書いた理由というのは、彼のルーティーンが映画の基調であり、ルーティーンが構造だと気づいたからです」

「突然、誰かが現れる 突然、何かドラマチックなことが起こる もしかしたら因果関係があるかもしれないし、ないかもしれない これは、結果というものに紐付けずに物語が生きることを許すかどうか、という問いです」

「映画を観たときに、操作されていることに気がつくかどうか」

「『こう思わせるために、こう作る』『こういう風にお話が展開するよう、こう作る』 映画を観て、起こることのすべてが組み立てられているように感じるのはいただけない」

「物語が構築されたものだということがあからさまになっているのは、本当によくない」

「物語の小さな部分が、私にとって、全体の流れの信憑性を台無しにしてしまった映画を作ったこともあります」

「その他の多くの私の作品で、物語の要素が見て見ぬ振りをせざるを得ない巨大な怪物(象)になっていると、私自身は感じます」

「多くの人たちは、物語があること、象がいることを当たり前だと思っている だからそれに気がつきません」

「でも私たちはたまに、ああ、何ということ、こんなのは間違っている、と感じてしまう そこに象が鎮座していてはいけない」

「まあ、『PERFECT DAYS』の象は、みんな心優しい象です」

@ddd
音声入力を使いながら、ふと思い立ったことを書いてみます。