アクスタカレー

倉田タカシ
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 最近よく店で注文するようになって、あそこに行くと3回のうち2回はこれを食べているような気がします。おいしいからかというと、もちろん味はいいんだけど、なにか体験としてリピートしたくなるものがあって……。

 知らないかたのために説明すると、もちろんいわゆるアクスタ、あの大きいのが入っているわけではないです。アクリルの厚みは同じくらいだけれど、サイズは10円硬貨より小さいくらいのものがだいたい20個くらい、ルーとご飯の両方に混ぜ込んであるんですね。あと、たんに一枚のアクリル板で、立たせるための台もついていないから、厳密にはアクスタと呼べるものではないような気がするのだけれど、メニューでの呼び名はアクスタカレーだし、印象としては十分にアクスタっぽいです。カレーは一般的な洋風のカレーで、カレー専門店ではないので、具を選べたりはしません。

 最初に注文したときは、食べるまえにすべてのアクスタを取り除いたのですが、これは間違った食べかただとすぐに気づきました。口のなかに入れてから取り出さないとアクスタが入ってる意味がないんですよね。なんのために入っているかといったら、もちろん味わうために入っているわけで。味わうというのは味蕾だけでするものではないし、味蕾が情報を受け取らないこともまたひとつの情報である、ということをあらためて実感させてくれます。もちろん、アクスタカレーの味わいのいちばんの要素は触感で、歯にカキッと響くアクリル特有の、金属とはまた異なる硬質感、なめらかに丸められた縁と平面、そのふたつの面が急激に切り替わる境目から強烈に感じられる人工物らしさ。まったく味がしないことと相まって、これが飴とは決定的に違う、食べ物ではないなにかであることを直感的に知らせてくれるのです。そういうものが、口にはこんだカレーのひとさじのなかに入っているという鮮烈な感覚。柔らかくほぐれる肉や粒立ってねばつく米とのあいだに生じる強いコントラスト。これらを調和させる、あるいはうやむやにする役割を果たしそうで果たさないスパイス。この料理を食べること以外では決して口内に生じえないエクストリームな状況に陶然となります。

 はじめのうちはアクスタをすぐに口から出してしまっていたけれど、回数を重ねるごとに口のなかに入れていられる時間が長くなっています。アクスタを外に出してしまったらもうあとはただのカレーなので、カレーの部分を咀嚼しつつ全体としてのアクスタカレーをなるべく長く味わう、という楽しみかたが身についてきました。

 アクスタを口の中から取り出したら、印刷されているモチーフを鑑賞します。これはランダムで、ひとつの皿に同じものがふたつ入っていたことはまだないですね。実写アイドル的なものとキャラクターイラスト的なのが、だいたい半々の割合で入っている印象です。アイドルは、アクスタが小さいから、たいてい全身じゃなくて顔のアップで、そこに指ハートが添えられてるくらい。アイドルにはまったく詳しくないけれど、そもそもカレーのために生成された顔だと思うので、きっとどれも誰でもないのでしょう。現実の誰かがこっそり混ぜられてたらすごいと思いますけど。キャラクター系のほうもたぶん生成物で、どこかで見たような何かばかり。この誰でもない、なにでもない感じがとてもよくて、口のなかで「食べ物でなさ」を存分に主張したアクリルの板にちょっと粗い印刷で乗っているのをまじまじと眺める体験がまたすごくいいんですね(現代のわれわれの精度感覚はスマホのディスプレイを基準としているから、間近で見るこういう印刷物はだいたい粗く感じますね)。大昔の駄菓子の包装と魂をおなじくするものが現代のテクノロジー環境のなかで息づいているのを愛おしく眺める感じ、といってもいいのですが、こういう表現では拾いきれない感覚もあって、これはやはり実際に体験してみないとわからないように思います。

 カレーの筋といくつかの米粒が残る食べ終わりの皿に、いちど口の中を経由したアクスタがぞろりと並んでいるのも、なんとも心温まる光景です。もらってもいいものらしいんだけど、ほかの人をみても、持ち帰っている様子はないです。これはやはり、立ち食いそば屋のプラスチックの箸みたいに繰り返し洗浄再利用されてこそのものだと思います。たくさんの人の口を経由して、やがて歯形がたくさんついて、印刷もかすれてしまうのかもしれない。でもそうなってからが、アクスタカレーという体験の本番だという気がします。それはぜひ味わってみたいものです。ただ、現実には、傷がついたり印刷がかすれたりしたアクスタはセンサーで選別されてどんどん廃棄され、新品の、新しい生成物をプリントされたアクスタが補充されているのかもしれない、それが現代のテクノロジー環境なのかもしれないとも思います。

 飽かず食べ続けています。これの延長上にどんな料理が登場するのかにも思いをはせつつ。