車のダッシュボードに置きたい。車も持ってないですけど。
香水がちょろちょろ流れる仕様だとさすがに大変なことになると思うので、芳香剤はつつましく台座に収められていたりするのでしょう。かわりに、水に蛍光塗料が含まれていて、夜はぼうっと光ったりするとうれしい。
ししおどしの落ち着いたムーブメントと自動車の振動がまるでマッチしないけれど、だからこそ置く価値があるというか、車内の一角にだけ静謐な時間が流れていることが事故防止にも役立ちます。メーカーにおかれましてはそのように強弁して販売されたい。
本来のししおどしにはどのくらい鹿(鹿ですよね)を遠ざける効果があったのだろうか、というのも気になりますが(いまぜんぜん確かめずにうろ覚えで書いてますけど、ししって鹿のことでしたよね)、現代において車のダッシュボードにししおどしを置くことにも、なんらかの「しし」を遠ざける効果を期待できるのではないか。
それは、車より速く走る、伝説の高齢のご婦人なのではないか。
正直、車より速く走る伝説の高齢婦人を遠ざける手段はまったくなさそうな気がするけれど、ししおどしがダッシュボードに置いてあると、高齢婦人の顔がほころぶとは思います。そもそも、べつに険しい表情で追ってくるわけではないと思います。表情についての証言はなかったのでは(確かめずに書いていますが)……
そもそも、旅館の女将みたいな感じの人じゃなかったですか。大きすぎないがすごく小さいわけでもない、ほどよく歴史のある旅館の上品な女将みたいな。車を追うのもホスピタリティからではなかったですか。あらゆる怪異はホスピタリティの観点から読み解けるとききました。多くの場合、車より速く走る女将は忘れ物を渡すために追ってくるのだとききました。でも、車を運転しているほうは、なにを忘れたのかすら忘れてしまっている。そもそも、お客様であったことすら覚えていない。なぜなら、ひとつかふたつ前の人生でのことだから……でもそれは忘れちゃうほうがいけないですよね。ただ、ここで車を停めて女将の話を聞いてしまうと、忘れていたほうがよいこともたくさん思い出させられてしまうので、そのリスクについてはよく吟味したほうがよいといわれました。しかし、振り切ることを選んでアクセルを踏み込んだとしても、受け取ることができずに終わった忘れ物がいったいなんだったのか、その後いつまでも気になり続けるのだそうです。先日、終電を逃したときに乗ったタクシーの運転手さんが話してくれました。
めったにないけれど、仕事で夜に山道を通ると、いまもそわそわしてしまうんですよ。もういちど追いかけてくれるのではないか、それほどにホスピタリティあふれる宿の女将なのではないか、と……。
車内をおとずれた沈黙に相槌をかえすように、ダッシュボードのししおどしがひかえめにひとつ打ちました。そういえば、これは高速の老婦人を遠ざけるといわれているのでは……? 運転手さんは小さく笑い、ああ、それは都市伝説ですよ。なにをやっても、女将は来るときには来ます。