ひよこ

倉田タカシ
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公開:2025/1/3

中途採用で入った小さな会社の、従業員が全員「夜店で売っていたひよこが成長した存在」だったという話

 社長をはじめとして、この会社に勤める九人の老若男女が全員、「自分は夜店のひよこだった」と主張します。主人公は、みんなが新入りにヘンな冗談をしかけてからかっているのだろうと思い、内心ちょっと立腹しますが、そのこと以外ではとてもやさしい人たちだったので、すぐに会社に馴染むことができたのでした。そして、自分たちがひよこだったという主張は、主人公が心底おどろいたことに、延々といつまでも続いたのです。しつこく繰り返すというよりは、日常のはしばしで自然にそれが話題にのぼり、みんな心の底からそれを信じているようなのです。主人公はしだいに不安になり、自分がおかしいのではないかと思いもし、自分だけがひよことしてのルーツを持たないことに疎外感をおぼえるようにもなります。けれど、社長も同僚たちもそんな主人公をやさしく見守り、不安をほぐしてくれるのでした。

「メタファーではないんですよ」

 社長は静かにそう語りました。

「マージナライズされた集団の象徴ではなくて、個別具体的な境遇です。血の通ったひよこだったし、いまは血の通った人間なんです」

「当時はたんなるひよこだったから、なにも考えてなかったですよ。まわりもひよこだったから、家族を失ってつらい、みたいなセンチメントはないですね」

「人間に成長したあとのほうが、苦しいときの苦しさはずっと大きいですね。複雑な存在になってしまったからね。それでも、ひよこだったころに戻りたいとは思わないかな。まあ戻りようもないけれど」

「いきなり人間になるわけではないんです。時間をかけて、成長のさまざまな段階を経ていくんですよ。

「戸籍をとるというのもその成長の一段階だけど、その時点で人間になっていたわけじゃなく……このへんは説明が難しいけれど」

「教訓のようなものはとくにないですよ、たんに人間なだけなんだから。人生が続いていくだけです」

 ある日、主人公が出社すると、みんなが小さな段ボール箱をのぞきこんで楽しそうにしています。見ると、そこには一羽のひよこが入っていました。ぴよぴよとかわいい声をたてています。主人公の心臓はばくばくと狼狽のビートを打ち、一同の顔をみまわすと、みんなは口々に、大丈夫大丈夫、これはひよこだから、といって笑うのでした。

 そのひよこは三年後に大きな象に育ち、会社のマスコットとして可愛がられます。主人公は、その一年ほどまえ、どうしてもやりたいことができてしまって悩んだ末に退社していましたが、報せを受け取って、そうか、象になったか、と顔をほころばせました。