マンチェスター・バイ・ザ・シーを観た(四回目)

defunty
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好きな映画は何度も観たくなる。

「会話が面白い」とか「爽快感がある」などの理由で見返すものは他にもいくつかあるけど、この映画についてはなぜ何度も観たくなるのかうまく言語化ができない。

一度目に観た時の感想は「話が重たくて暗いが、なんもかんもが上手くいかなさすぎて逆に面白い」というものだった。『上手くいかない』のバリエーションが豊富過ぎて、この作品が持つネガティブへの理解度や共感性に感心していた。

ネガティブイベントは大小様々だが、その中でも小ネガティブがところどころに散らされていて面白い。

「車をどこに停めたか分からなくなり、寒い中グチりながら歩き回るシーン」

「救急隊が主人公の奥さんを運ぼうとするも、なんか手際が悪くてわちゃわちゃするシーン」

「冷凍庫を開いたら詰め込んでいた冷凍食品が流れ落ちて来て、戻して立ち上がると冷凍庫のドアに頭をぶつけるシーン」

など細々とした演出があり、笑ってはいけないシーンに紛れ混んだミリグラムのユーモアが妙に刺さってクスクスと笑っていた。

とはいえ、客観的に考えると本当は笑えるような映画ではないと思う。

話の大筋としては主人公リーは兄を病気で亡くし、甥である兄の息子パトリックの後見人になることを迫られているが、そうなると一緒に住む必要があるからお前が俺の家に来い、いやいや叔父さんが僕の家(マンチェスター)に引っ越してよ、という言い合いが続く。最初から最後まで続く。

人の死という憂鬱な状況から始まりつつ、なぜリーが引っ越しを拒むのかについてのエピソードもまた重い。

自分にとっては「徹底的に伝えられるネガティブ」にユニークさを感じた、というだけで、この重苦しさは万人受けするものではないと思う(それでもアカデミー賞は取っているので少しでも興味があれば観賞をオススメする)。

そんなこんなでなぜか定期的に観たくなる不思議な映画として、一年に一回の頻度でこの映画をレンタルしている。

三度観てもこの映画の何が自分を惹きつけるのかが理解できなかったが、昨日の四度目でようやくその要素が分かった気がする。

この映画では、主人公達の悲しみを昇華できる人間がいない。

大体物語というものは「起承転結」というのが基本であり、「転」のイベントでキャラクターは苦しみから解放されたり、新しい何かに向かって立ち上がる、みたいな展開になることが多い。

この映画ではそうはならない。「転」のイベントは起きるが、主人公達の苦しみや悩みが救済されることはない。用意されたハッピーエンドにリーとパトリックはたどり着けない。

例えばリーが兄の遺体をどう保管すれば良いか電話で相談するシーンがあるがそれを聞いたパトリックの彼女が『パトリックの前であんな話をするなんて無神経な人だわ』と怒るシーンがある。しかし当のパトリックは全く気にしてない。

周りの人間は彼らを気遣うが、心のうちを真に理解することはできない。更に言うとパトリックも自分の悲しみを理解できておらず、彼女を取っ替え引っ替えしながら青春を謳歌しているように描写されながらも、夜中にいきなり一人で癇癪を起こすように泣き出すシーンがある。

個人的には一番印象的なシーンであり、突然泣き出した理由については「そこがスイッチになるか〜」と感心した。感情の複雑さをかなり上手く表したシーンだと思うし、実際に子供の頃自分もこういうことがあったと共感できるシーンだった。

改めて考えると、この心の複雑さの描写に強く共感し惹きつけられたのではないかと思う。自分ですら管理できないし、ましてや他人が理解できる可能性はもっと低い。どうすれば前を向けるかという問いに対して答えはない。

上記のように色々と感じることが多く、またそういったことを言葉で語らず「感じさせる」ワビサビが魅力的な作品、という結論に落ち着いた。

ハッピーエンドではないがバッドエンドでもない。彼らは悲しみを抱いたまま。だけどどうにか、なんとかやっていけるんだろう。

※この映画の「マンチェスター」はイギリスではなく、アメリカ合衆国のボストンからちょい北にある町の名前。『ボストンからマンチェスターまで45分程度?1時間半はかかるね!ロケットでも使わない限り!』っていうセリフが好き。