Twitterで流れてきたこちらの記事、感動したのでまず読んでください。
その記事に感化されて、自分なりの指針を作ってみたというお話。
専門を突き詰め、客観的実績を増やし、自分の名前で生きる
好奇心の満たし方は、新しい分野を知ることと、既知の分野をさらに掘り下げることの雑に2つに大別できると思うが、特に後者を怠らないようにしたい。専門性を持っていないと汎用的な仕事を広く振られることになり、自分の尖りがどんどん丸くなり、結果として代替しやすい人間になってしまう。専門性には自分の好きなことを突き詰めていった結果のものと自分を守るためのものという2つの側面があるように思う。
世の中のニュース(特にエーアイ界隈)を見ていると、相手が分からないからと言って必要以上に盛って話をする人たちが一定数いるように思える。また、外部からの理解を過度に期待してはいけないし、自分が思う正しさに従って自分の周りが動いているとは限らない。自分の身を守るためにもその分野での客観的実績を積み重ねることが自己防衛の観点でも大事なことだと思う。
そうした結果、自分の名前でお仕事をもらえることが理想の1つである。そうした増やした実績・培った能力を活用して、わらしべ長者のように新しい機会を掴んでいきたい。
「ビジネスとアカデミックの架け橋」というテーマで実際に産業応用・社会実装の場に携わったものとしては、「自分の専門分野で第一人者にもなっていない人間(僕)」が社会実装をやるのは、元の専門分野の人たち・社会の人たちどちらにとっても失礼に当たると思った。
どういうことかと言うと、周りに自分に近い専門の人がいないというだけの理由で自分が専門家となってしまうことは自身の成長にとって良くない、またあ、その分野を詳しくない人たちにとっても自分がその分野の基準になってしまうのは分野を過小評価させてしまうので良くない
キャリア論として、100万分の1になるために1/100を3乗して1/100万になりましょうという話をよく耳にする。最近思うのは、3つの分野を1/100になるように突き詰められるほど自分は器用な人ではないので、1/10000 (数理系) x 1/10 (エンジニアリング) x 1/10(国際性)くらいのバランスの方が向いていると思う。
自分の人生の手綱を手放さない
自分のやりたいことに蓋をして意思決定して、その後で気に入らないことがあって誰かや何かに当たったとしてもその責任を他人が取ることはできない、全部自分に返ってくる。
各々が自分の大事にしたいもの、仕事や家族や趣味などそれぞれの比率で生きている、ああそっか、僕も好きなように選んで良いんだ、と心から思えたことが会社員生活の1番の収穫。
逆に自分の手綱を手放した瞬間、他の人の駒になってしまう可能性が高いと思っている。人が足りていない組織では誰かにお願いしたいことは沢山あるだろうし、それをこなして何かを達成した気になることを繰り返していると、本当に個人がやりたいことが見えなくなってしまうのではないかと思う。でも、そういうことを考える間もなく新しい依頼が流れてくるというジレンマに陥ってしまいそう。
手綱を手放さないことは大事だが、いつも気張って持ち続ける必要はない。どう言うことかというと、心理的に不安定な時に何かを無理して決定したり、行動したりする必要はない。その時には一度復活するまで耐える時間があって良い。
違和感から始める
数年前に出会ってそこから大事にしているNVC (Non Violence Communication)というコミュニケーションスキームについて話したい。端的にいうと、人は潜在的に満たしたい欲求(ニーズ)を持っており、何か感情が出たということはニーズに違うまたは従うことが発生したことであり、そのニーズを深掘りして伝え合うことで、人同士は分かり合えるという考え方だ。元の本では対人コミュニケーションの手段として書かれていたが、自分の振り返りをする際に特に有用だと感じている。何かモヤッとしたり、イラッとした時に自分のどんなニーズに反したんだろうかと考えることを繰り返すとスッキリする。という自己の整理のためにはもちろんだけど、他人と意見が合わなかった時にこの人はどんなニーズがあるんだろう、どう言う背景からその言動に至ったんだろうと思うようになった。
ネガティブな感情はなるべく早く手放したいと思いたくなるが、そこで一度立ち止まって自分がやりたいこと・大事にしたい価値観を見つめ直す時間は大事。
自分の心の声を見過ごさない生き方をしたい。
環境にこだわる
自分が力を伸ばせる環境、自分がリスペクトできるくらい人間的にも技術的にもスキルの高い人たちがある環境を選ぶ。本田さんが近畿大学の卒業式での講和で話されていたことだ。馬渕さんの「わらしべ長者のように機会を掴んでいく」という表現も納得する。
研究室において様々な企業と共同研究やることを普通のことだと思っていたが、別の環境を知ってみるととてつもない機会を頂いていたのだと改めて思う。
今いる環境を変えるより自分が理想とする環境に移った方が早い。今までにいたことのある組織で望ましくないと思った部分を変えようと行動したけれど、セカンドペンギンが思ったように現れてくれず、限界を感じたことがあった。
同じ環境に居続けるとどうしても慣れや弛れが出てきてしまうので、定期的に環境を変えて自分の中で緊張感を保ち続ける仕組みを作ることが必要。
自分の感情に蓋をする時間が増えてきたと感じたら、その環境を離れるべき1つのサインだと思う。
では、どんな環境がいいのか、今の僕は「好奇心の方向と深さが似ている人」「自分と対等に議論し圧倒してくれる人」「背中を預けられる人」「自分の可能性を信じてくれる人」の4つが揃っていることだと思っている。
やらないことを決める
好奇心があちこちに伸びてしまう自分にとって、あちこちつまみ食いするタイミングもあっていいが、どこかでやらないことを決めることは大事。特に社会人はいつまでも続いていく怖さと言うのを感じた。意図的にやらないことを決め終わらせるタイミングを持つようにしたい。
また、「できるけどやらないこと」を意図的に選ぶことが大事だと思う。例えば僕はエンジニアの中では客観的に見てコミュニケーション能力がある方に分類されると思っているが、それにかまけて外部折衝や上流工程を繰り返すことは僕が伸ばしたい方向とは異なる。直近では他者比較で評価されるので良いかも知れないが、その時間は長期的に見て自分にとって損失である。まだまだ若いので自分の実力をしっかりとつける時間に使いたい。研究の業界はそうした上で客観的に議論がなされる場、論理的に正しい人が正しい、誰が言ったかは関係がない世界、なので僕はとても気に入っている。
会社のために、チームのためにと浮いているボールを処理しすぎることは短期的には組織からは有り難がられるとは思うが、長期的には自分のためにならない。その部分を評価されてやりたい仕事が回ってくると言うシナリオも存在し得ないことはないが、それよりも自分の専門性をしっかり発揮し続けて望む機会を掴む方が専門的キャリアの築き方としては健全だと思う。
全ての選択肢を見た上で決定することなんてできない。逆に思い切って目の前の選択肢を全部切った上で今見えていない新しい選択肢を探しに行くことをしたっていい。学部で学んだアントレプレナーシップがそう思わせてくれる。アントレプレナーシップって和訳だと起業家精神と訳されて、新しいビジネスを立ち上げるメンタルモデル全般のことを指していると思われがちだという認識だが、バブソン大学によると "The best definition of entrepreneurship is better described as a mindset that is opportunity obsessed, holistic in approach and leadership balanced." と機会志向の考え方として定義されている。
自分と他者の境界を意識する
少し前は近くの空間の他人の不機嫌を必要以上にもらいすぎて萎縮したり気を病んだりしてしまうことがあった。
これまでにいた組織で、誰かが誰かに怒っているのを見るのが嫌で自分の成果をこっそり誰かに渡したこともあった。
自分が思ったような評価を受けずにいらいらしたこともあった。
これらは自分と他者の境界が曖昧になっていたことに起因すると思っていて、バウンダリーに意識的になり、自分が守るべき範囲を明確にすることで必要以上に他者に干渉することもないし、他者の干渉から自分を守ることもできるようになる。
個々人が大事にしたいものの優先順位をつけてそれに従って生きている人の集合体が社会なので、自分の優先順位が違うからといってそれを批判する必要はない。そんな時間があれば自分の人生に集中すればいい。
自分のここに挙げている項目や自分の行動がご自身の価値観と異なる人がいると思う、今後個展を開いたりしたらそう言う声はもっと増えると思うけど、別にそれでいい。(例外は 9. を参照)
自分の可能性を信じる人とともにある
トップの元記事で述べられている言葉が自分の感情に共感したので借用して掲げさせていただく。
全ての人から自分のやっていることについて理解を得られることはないであろうが、別にそれでいい。
他者に対してもそうだし、自分自身に対してもそう。変に自分の可能性に自分で蓋をすることなく、誰よりも信じられる自分でありたい。
会社を辞める相談を何人かにして、その後やりたいことを話した時に、こんなにも自分を応援してくれ、建設的なアドバイスをくれる人たちがいるのかと勇気づけられた。
歪んだ価値観だと今になって思うが、他者への相談すると選択肢が閉ざされてしまい、相談なんて安易にしてはいけないものだと思っていた。しかし、今回の経験を経て自分の信頼できる人に適切なタイミングで相談をすることで頭の整理が進み、より納得して自分の人生の意思決定ができることが分かった。
逆に誰かのチャレンジに対して背中を押せる人でありたい。
自分なりの正しさを通す
過去に自分勝手な行動で他人を大きく傷つけたことがある。それ以降、組織の離れ方は人一倍気をつけているつもり。
自分なりの正しさを通した結果、仲違いした場合は、何が違ったのか、どう言う価値観が背景にあったのかをきちんと理解し合う必要がある。
情報格差を利用してコミュニケーションを取る人、マウントを取る人は距離を置きたい。自分の出したアウトプットがつまらない場合は正しく言うし、間違いを指摘されたら真摯に受け止める。その代わり、本当に某の事実がすごいと思った場合は自分のアウトプットであっても強く主張する。
他者の行動が自分にとって理不尽で不利益を被ったと思った時は、正々堂々反抗する。(愚痴愚痴言っているだけの時もあったが、それは格好が付かないと思い、きちんと主張するようにしている。)
「これは誰々にやってもらったーーー」と言う言い方を良くするように心がけていて、他人の見えない部分の貢献を全体に共有するようにしている。
こうした自分なりのこだわりを(他者に迷惑のかけない範囲で)大事にして通していきたい。
大切にしたい人をとっても大切にする
もちろん、誰に接する時でも最低限のリスペクトはあるので下限は常に存在するが、ここで述べたいのは上限を意図的に設定するイメージだ。
ここまで読んでいると、自分がとても冷ややかな人間になってしまったなと思える部分もある。その代わり、自分が大切にしたい人には誰であっても、様々な方法で大切にしたいし、同じ時間を過ごしたい。
自分が何者でもない時、自分が弱っていた時に支えてくれた人たちは恩人だ、必要となれば幾らでも力を貸して恩返しをしたい。帰省するたび会いたいと思える人がいて会って時間を作ってくれるのはありがたい。またご飯でも行きましょう。
この大切にしたい人には自分も含まれる。大切な人を大切にしようとする代わりに自分を悪者にして解決しようとしたことがあったがそのアプローチは不適切だった。
自分の言葉で生きる
誰かの名言や耳馴染みのいい言葉が支えになることはもちろんあるけれど、それだけに依存するのはいやだ。
自分の経験や感情や思考の結果から出てきた言葉を大切に紡ぎながら生きていたい。
この執筆活動自体が自分の言葉で生きるための行動の1つ。
と重複した話もあるが、本日時点の僕は思っている。(途中たくさん寄り道したな)
集団主義からかなり個人主義に寄ってきた気がする。
数年後改めて文章を振り返ったときに何を思うのだろうか。
またその時に幾らでも書き換えればいいや。
あとがき
この記事は本当に何をもって公開してよい状態とするか悩んだ (公開後も少しずつ校正している)
あとがきのあとがき
ここ数年の様々な出来事やそれに伴う感情にかなり支配された上で書いた文章だったなと少し時間が経って思う。環境が変わり、共に時間を過ごす人や時間の使い方も変わった。それによって、ここ数年で無意識に構築していたバリアが少しずつポロポロ剥がれ落ちていっているような感覚。
一部の出来事ばかり見過ぎていたのかも。