Apple Musicの画面を流し見ていた時に、何年か前に作ったソ連軍歌のプレイリストを見つけた。子供に抱きつくスターリンが表紙になっていた。
思えば高校二年性〜大学一年まではかなり共産的な文化芸術を好んでいた。若気の至りである。
当時の自分を知っている人には懐かしく感じるかもしれない。私はソ連軍歌を歌って巻き舌ができるようになった。学科の説明会の折、高校生の前でスムグリャンカを歌ったこともある。毎日ソ連民謡やソ連軍歌を聴き、5月9日を祝い、軍服を眺め、プーチンの一挙手一投足を面白がる日々を過ごしていた。そのロシアの「共産」的な側面に牙を剥かれ、留学が強制終了するまでは。
当時の同志(敢えてこう呼びたい)達に聞きたい。私はこの過去のスタンスと、そして今も昔も変わらず存在しているロシアの共産的な側面とその産物にどう向き合えば良いのか。
ウクライナ侵攻というのは一つのパラダイムシフトだったと思う。侵攻がなかったら自分はロシアの共産的な部分を茶化しながら生きていたのかもしれない。その加害性について考えるたび、たちまち自己嫌悪に陥る。
第二次世界大戦を題材にした創作についても不信感を抱いてしまう。実際に戦争を経験し苦しんだ人がいるのに、戦争のない日本で、安全な所から戦争のエモーショナルな部分、戦争の産物たちを自分の楽しみのために消費することに抵抗感がある。
我々の状況というのは戦争の背景を知らない子どもとは違う。ロシア留学中、ロシア人の子どもの子守りをしたことがあるが、子供が「戦車」「大砲」という単語を用いて戦争ごっこをし始めて日本の遊びとの違いを実感した。ロシアの子供たちは物心つく前から戦争という概念と無意識に親しんでいる。戦勝国だからだ。
一方我々は敗戦国だ。戦争の悍ましさを知っている。その立場として、適切な行動を取っていきたいと常々思っている。でもどうすればいいのかわからない。大学に5年も通って、こんなこともわからない。本当に情けない。
或いは、これは人生をかけて向き合い方を模索していく必要のある問いなのかもしれない。