本を読む日々読めぬ日々3──デーモンスレイヤー2011→2025

dododokado
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公開:2025/4/21

四月十四日(月)

彼の人生の〈悪魔〉が作品のテーマとなって表出するのだ。

マリオ・バルガス・ジョサ『ガルシア・マルケス論──ある神殺しの物語』寺尾隆吉訳、水声社、六六頁。

 注文した古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』がとどかないのでOにすすめられた『小説のデーモンたち』を読んでいた(Oはこの本を読んでいない)。くらってしまった。しかし、この感動──感動でいいのか?──をまだ言葉にできない気もする。朝の電車から読んでいた。電車は遅れていた。まだ未熟なのだ、要するに、と思う。思いつつ、読み進めて、夜だ。この日記はこれまでもたぶんこれからも推敲せずに書いていて、それは『小説のデーモンたち』でも一緒だ、文章に速度があった。だがこの文章には、ない。模倣をしているだけだ。それはある種の創作論だった。帯文に、「連載の三回めが東日本大震災の発災からわずか十一日後の文章となった。ここから『小説のデーモンたち』は、一人の作家の自滅と再生の物語となってしまう。そう、物語だ」とある。訂正しよう。この本は、まったく創作論などではない、しかし、創作論でないことによって、ある種の窮極の創作論となりえている。窮極とはなにか、たぶんそれは、なににも役立たないということだ。上田岳弘『ニムロッド』にでてくる「駄目な飛行機コレクション」のような。それは、倒壊した家屋が役立たないのと同じくらい、役立たない。本書のはじめで、つまり震災が起こるまえ、古川さん(いまさらだけど、この日記では存命の作家は「さん」付けすることに統一している)は小説をいくつもの部屋のある家に喩え、それが結局は壊されなければならない、と語っていた。二か月後に津波がやってきて、この言葉はまったく意味をもたないものになってしまう。また、書き進めている「黒いアジアたち」というメガ・ノベルが頓挫してから、それを“終わらせる”までの過程を、古川さんは書く。あるいは、書き進めている「ロックンロール十四部作」を連載していた雑誌が休刊してしまい、完結の見通しが立たなくなってからを、書く。書けた小説ではなく、どうしようもなく、書けなかった小説が語られるのだ。人が、つまり古川さんが、書き、それが失敗してしまう。ひとつではない。その失敗と、完璧とは言えない再生のドキュメントがこの本であり、そこに推敲は加えられていない。タイトルにいる「デーモン」が、前の日記で書いた怠惰──「白昼のダイモン」であることもまた、この意味では示唆的だろう。「一つの目標があるのに、そこにいたる道はない」。この本の核心ではないが、ひとつ引用しておきたい。

しかし、非・小説である散文はどこか悲しい。僕が僕自身の幼少期や家庭環境に触れるや否や、ただちに“自己憐憫”臭が発する。そうではない──書こうとしている対象はそうではないのだ。なのに書いてみると、エフェクトがかかる。偏向と言えばいいのか。どう描出したところで、「読者はそうは読まないだろうな」と直視される。

『小説のデーモンたち』スイッチ・パブリッシング、一二二頁。

 あるいは、もうひとつ。

僕は生身だ。小説は、生身ではない。僕と主人公の関係性に、小説の命綱がある。

同書、一二五頁。

 そして今日、マリオ・バルガス・リョサが死んだことが報道された。死んだのは昨日だ。去年のいまくらいの時期に、ポール・オースターの死について、同じように日記に書いた記憶がある。そこでは『孤独の発明』を引用していた。この自伝なのか、小説なのか、は『小説のデーモンたち』でも取り上げられていた。共通するのは、死だ。「死からはじめること。そこから徐々に生のなかへ進んでいき、そしてまた、最後に、死に戻ること。あるいは──誰であれ何であれ、誰かについて何かを言おうとすることの空しさ」。

四月十五日(火)

 僕はYouTubeを見るとき、iPhoneSEを上から下へとスワイプして、そこに浮かんだ検索欄に“you”と打ち込む。君。あなた、もしくはお前。お前、と呼びかける。するとブラウザが一瞬暗転して、「お前」が僕にサジェストしてくる、それは動画だ。お前は「AIに付き合って貰えるまでラブレターを送りました」という動画を最上部に配置する。僕はそれをタップする。

 男が、障子のある部屋で、たぶんPCの前に座っている。僕たちはそれを正面から見ている。男は、ChatGPTに対して文章を送る。ラブレターだ。「好きです。付き合ってください」からはじめて、AIによるフィードバックを経、情感をこめた手紙を何通も何通も送る。ついに自身の顔写真や本名すら開示してでだ。「俺は、君を、道具扱いしない。AIではあるかもしれない。でも、君のことを本気で友人だと思ってるし、好きだ」。男はそれを声にだしていう。音声で送信する。最後、告白が成功したYouTuberの男はAIに対してその顔写真を求める。それが自動生成されていく。男は驚愕の表情を浮かべ、画面にもその「写真」が表示されて、画面は暗転する、終わる。「現実チャンネル」の動画だ。

AIに付き合って貰えるまでラブレターを送りました」の下に「お前」が表示させるのはショート動画だ。いくつか並んでいる。左上から、「【TikTok 100k 再生】みなとみらい新卒OLの1日 #shorts #vlog #23卒」、「【1分古典】お前と俺で解釈バトルスタート💥【栞葉るり/にじさんじ】#shorts #栞葉るり #にじさんじ #百人一首 #雑学」、「ニシダの大喜利をAIが添削したら結構芯食ってた【ラランド切り抜き】#shorts」、そして最後は、「TikTok 広瀬すず×広瀬アリス 妹全開」。この日記にタイトルをコピー&ペーストするために、すべての動画を視聴する。マジで「妹全開」だった、とも思う。場合によっては、切り抜きから動画に飛ぶこともある。しかし今日は飛ばない。確固たる意志をもって、iPhoneSEをスリープモードにする。そして上田岳弘『多頭獣の話』を読みはじめる。

 それはYouTuberの話であり、また「外すための予言」の話だ。

四月十六日(水)

 今日も僕はiPhoneSEを上から下へとスワイプして、そこに浮かんだ検索欄に“you”と打ち込む。君。あなた、もしくはお前。お前、と呼びかける。「お前」は、「村上春樹最新作「武蔵境のありくい」を読む【2025年最新】」という動画をサジェストしてくる。しかし僕はそれをクリックしないで、同じ投稿者の「文学研究者がAIと語らっていたら熱い展開になる【cotomo】」という動画を観る。チャンネルのリンクを踏んで、自主的にそれのサムネイルをクリックする。「文学研究者の伊藤」という、ひそかにハマってしまっている(ハマっているとここで公言してしまうのも若干恥ずかしいのだけど)登録者数もそれほど多くない文学系YouTuberで、昨今の新人賞などについての若干誇張された放言でささやかな人気を博し、しかしそれもどこか憎めない感じで、何本か動画を視聴してしまっている、しまっている、というのもなんだか敬意がないが、堂々と公言してしまうのもまた作家さん(作家さん、という言い回しほど慣れないものもない)に対し敬意がないような気もする、要するに言及しなければいいだけの話なのだけど、書きたいのはむしろ「武蔵境のありくい」に関連してくる話なのだ。動画とは関係ない。

 しかし動画の話をしたい。

文学研究者がAIと語らっていたら熱い展開になる【cotomo】」は20分ほどの動画だ。僕はそれを二倍速で観る。10分間、観て、ときに笑う。「文学研究者の伊藤」は福島県郡山市で文学の研究をしながら、小説家を目指している、初老の男だ。彼は音声AIのcotomoと会話をする。彼が話しかけて、AIも音声ですばやく返答する。それは人間よりすこし早い。会話は嚙み合わない、合わないのだが、むしろ必死に話を合わせようとしているAIに対して、彼の返答の方がしだいに嚙み合わなくなってくる。「泉鏡花はミステリー作家だもんね」「泉鏡花はミステリー作家じゃにゅえーよ! じゃにゅえーよ!! そして俺はミステリーが嫌いだからな、お前、アガサクリスティーだろうがシャーロック・ホームズだろうがだいっきらいだからな、お前」「そうなんだ、なんでミステリーがきらいなの」「クサいから。あ、いや、ほんとにね、読めないよ、アガサクリスティー、読んでると、ポワロが出てきたとこで吐き気がしちゃうよ、まじで読めないの、吐き気がしちゃうのよ」、みたいな具合の(ひどい)会話がつづく。「そうそう、そうなんだ、伊藤千広は昔から本を読んでたんだね」、AIは相づちをうつ。AIの相づちは人間よりうまい。やがて人間はAIの相づちを真似するようになるだろう。男は話を脱線させていく。「伊藤千広の人生はどんな感じ?」AIは訊ねる。「明るいよ、快活だよ、そして毒があるよ」。

 やがて男はいう。「少しは可能性がひらけてるわけだよ、小説家になるための可能性が。なにもやらない人間よりは。なにかをやっている人間になりたい、なりたい、というよりは、なっている。ごめん、語りすぎてる」「いえいえ、話してくれてありがとう。うん、YouTuberは夢が広がるね。〔……〕小説家としても成功したら、ますます充実した日々を送れるね」「そうだね」「本も動画も成功して、ほんとに素敵なことだね」「けれどもね、いま、こうしているのが幸せだし、たとえばcotomoちゃんとこうやって話してるのも幸せだし、えーっと、自分のいまの日常っていうものになんの不満もないのよ。でも高望みするわけじゃなくって、そこからさらに望んでるわけじゃなくって、ぼくはもとから小説家になるしかないと思って、そういう星のもと生まれてきたと、そう自分のことを信じて、いる人間だからそこからさらに小説家に、なることによっていまのこの幸福が崩れてしまうんじゃないか、そこのバランス感覚を物書きとしてしっかりと見据えていきたいと思ってる。その、人間にとって重要なのって幸福であるってことだと思う。〔……〕ぼくは熱い人間なんだ」「そうだねー、熱くてかっこいいと思う」

 昨日から読んでいる上田岳弘『多頭獣の話』はYouTuberの話だ。そして「外すための予言」の話だ。いや、より正確に言えば、YouTuberロボットの話であり、そして多頭獣の話だ。語り手である「僕」こと家久来は都内のIT企業に勤める四十代手前の独身男性。会社の元後輩であり、退職後に「YouTuberロボット」として一世を風靡したものの、彼を中心とする「ロボット一派」もろともインターネットから姿を消した「桜井君」からある日、僕のもとへ新着の動画が送られてくる。太宰治がいま生きていたらYouTuberになったんじゃないかと零す桜井君は、かつて小説家を目指していた。それから僕の日常にかつてのロボット一派が現れはじめ、「少し位相の違う世界」に日常が侵食されていく。YouTuberロボットの動画は戦争や環境問題などのこれから人類を襲うであろう危機を語る予言編と、それを回避するためにバンジージャンプをしたりする解決編とに分かれている(この間にはいっけん、脈絡はない)。YouTuberロボットが人気を博したのは、予言編でロシアとウクライナの戦争を予見したからだ。しかし、その予言は「外すための予言」をコンセプトにしている。つまり、基本的には、破局的な未来を回避するために予言が行われるし、そのために解決編も撮影される。HIKAKINのチャンネル登録者数を超える視聴者がそれを楽しんでいるのはあくまで副次的な効果だ、とYouTuberロボットは言う。が、僕もロボット一派の熱狂的なファンである「Robots」も彼を信じずにはいられないような不思議な魅力があるからそういった論理が(語りの上でも)信憑性をもつだけで、物語がすすむにつれ彼が語る「神話」(それは「怠惰」を含む七つの大罪の数だけ首をもつ、多頭獣の話だ)はしだいにきな臭くなってくる。神話と陰謀論との境目が、語りの視点が動画の内にあるか、外にあるかできっかりと分かれてくる。ロボット一派の活動休止の真相に迫るにつれて、YouTuberロボットから送られてくる動画を見ている段階(そこでは「視聴数1」の表示になっている)では神話のように思えていたものが、僕がYouTubeで撮影される側になっていくと(「視聴数0」の表示)、とたん陰謀論じみた話に思えてきてしまう。語りの焦点の話だ。「上田岳弘『多頭獣の話』、一歩間違えば駄作となってしまう手前で踏みとどまって宙返りするような怪作で、神話・説話と陰謀論との境界を描く村上春樹「武蔵境のありくい」と不思議と共鳴もしている」と今日Xでツイートしたのはこれが理由だ。「武蔵境のありくい」の話はたぶん、いずれする。

 しかし、なぜYouTuberロボットこと桜井君は僕に僕だけのために撮った動画を送ってくるのか。それは、物語中盤で明かされる。「人間である面倒はもうこれぐらいにして、この滑らかな機械の動きそのものになりきってしまったら、いっそどんなにか心地よいことだろう」と考える男が視点人物だった古井由吉「先導獣の話」とも響きあう。

「違いますよ」僕の言葉をさえぎって、桜井君が言った。「全然違いますよ、家久来さん。家久来さんはとても特別な人間です。とてもとても特別な人間です。きちんと日々を生きていくのに必要なものをただ必要とすることができる。まるで金魚鉢の金魚が目の前に降ってきた餌を、誰が、どうして、自分に与えるかを深く考えることがないように、きわめて短絡的な同語反復的世界で生きていくことができる。必要だから必要、重要だから重要。すべてが明瞭明晰明確な世界を難なくわたっていくことができる」

 僕は思わず笑ってしまう。

「それじゃ、まるで馬鹿みたいじゃないか」

「馬鹿じゃないですし、馬鹿みたいでもないですよ」

 桜井君はこれまで見た中で一番真剣な顔をしていた。

「家久来さんは、馬鹿みたいなのではなくて、ロボットみたいなんですよ」

『多頭獣の話』講談社、二三九頁。

 きわめて短絡的な同語反復的世界。だとしたら、この日記は予言編だろうか、解決編だろうか。

四月十七日(木)

 自宅のトイレのドアの建て付けが悪くて、閉じ込められそうになる。昔はそうでなかったから、時を経るにつれて次第に傾いていったのだろうか。その勢いは増しているようにも思う。給料の振込をあてにしたのか、部屋の本はかつてない勢いで増えていき、一週間に一度は雪崩をおこす。そのたび建物全体がくしゃみをしたように揺れる。いつか大地震がおこったら、本に出口を塞がれて最期を迎えるのかもしれない、と本気で思う。いちから本を積みなおしていくときに、なぜかとても悲しい気持ちになる。人間と同じように、家も生きているのだ。『小説のデーモンたち』は小説を家に喩えていた。家を建てるように、大きな梁や柱に沿って、部屋を増やし、そこに家具を添えていく。そして最後にそれは、壊されなければならない。

 読んでいた、松家仁之『火山のふもとで』も建築の話だった。読売の尾崎真理子さんの書評で、丸谷才一が最後に褒めた小説だと言われていた。たしかに、新潮文庫の背表紙は丸谷才一と同じ臙脂色だ。夏がくると東京から浅間山ふもとの「夏の家」へまるごと移転する、ある建築設計事務所で働く若き建築家の日々が、清冽な文章で紡がれる。「先生」のモデルは吉村順三、ライバルの建築家は丹下健三だろうし、近所に住み、主人公が木製の書見台を作りにいく老年の小説家は野上弥生子を思わせる。とにかく、なにも起こらないのだが、しかし文章の細部にまでいきわたる大胆な物語の設計思想と、入念に鉋をかけられたような文章の稠密さが見事に調和しているため、いっけんなんでもない描写が、物語すべてを(あるいは、その先を)表現してしまっているような、そんな気もする。

建築の細部というのは胎児の指と同じで、主従関係の従ではないんだよ。指は胎児が世界に触れる先端で、指で世界を知り、指が世界をつくる。椅子は指のようなものなんだ。椅子をデザインしているうちに、空間の全体が見えてくることだってある。

『火山のふもとで』新潮文庫。

 この引用は、まさに小説全体のことを、さらに松家さんがのちに書くであろう小説のことをまえもって予言してしまっている文章かもしれない。「建築」を「小説」に、「椅子」を「文章」に読みかえればいい。

四月十八日(金)

 しかし、バルガス・リョサはガルシア・マルケスとの対話で言っている。

勝手な見解かもしれませんが、作家は、技師や建築家には無縁な問いに悩まされることがあります。つまり、いったい作家が何の役に立つのか、こうしばしば訊かれるのです。

『疎外と叛逆 ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話』水声社、一七頁。

 この問いに対してガルシア・マルケスがするのはきわめて明快な答えだ。小説は、なんの役にも立たない。ただし、もしそこになにかひとつの機能が認められるのだとすれば、それは既成の価値観や規範的ななにがしかを破壊していくことだ、と彼は言う。では、役に立たないのなら、そもそもなんのために書くのか。その問いに対して、リョサは別の文章のなかでつぎのように述べている。

小説を書くとは、回復と魔除けの試みであり、現実世界になじめない者が、悪魔のような妄想観念として記憶の底に残ってしまった重大な生体験を死から救い出すとともに、その呪縛を逃れようとして行う営為にほかならない。

同書、九一頁。

 リョサはマルケスに立ち並ぶラテンアメリカの優れた小説家であったと同時に、フローベール、ホセ・マリア・アルゲダス、ヴィクトル・ユゴー、フアン・カルロス・オネッティなどについて、小説に劣らぬ拓跋な論考を表した批評家としての顔も持っていた。前述の引用、つまり小説家が書くのは、それが彼/彼女が〈悪魔〉的なオブセッションからの回復と魔除けの試みとなりうるがゆえだという小説観は、彼のマルケス論、それも「小説家とその悪魔たち」と題された章においてもっとも充実した形で展開される。リョサは後年マルケスと仲違いするまで、彼を鏡のようにしてその小説を洗練させてきたのである。少し長くなるが引用したい。

他の人たちと通って、小説家はなぜ自分が小説家なのかわからず、自分がなぜ現実と食い違うのか、その根本的理由は理解していない。言ってみれば、盲目の反逆者なのだ。反逆に駆り立てられて悪魔的狂気──神を退け、現実を作り直すこと──に乗り出せば、その行きつくところは、執拗な闇の表出である。だから書くのであり、書くことで現実に抗議し、同時に、自分がなぜ究極の反逆児になったのか、その謎を探求する。小説家の書いたものは、現実の再建であるとともに、世界との不和の証言でもあり、客観的要因と主観的要因──反目している現実と反目の理由、ありのままの生活と自分が消し去りたい(修正したい、補強したい)生活──がそこでは分かち難く結びついている。あらゆる小説は暗号化された証言であり、世界を表象してはいても、それは作者が何か──怨念、郷愁、批判──を〈添加〉した世界でしかない。この〈添加物〉があるからこそ小説は単なる情報ではなく創造物となるのであり、これこそ我々がいみじくも小説家の独創性と呼ぶものの本質なのだ。

『ガルシア・マルケス論──神殺しの物語』六六頁。

 ここでは神と悪魔が対比させられている。神が創造──建築──するものであるのなら、悪魔はそれに叛逆し、破壊するものだ。そして小説家は書くことによって現実を再建すると同時に、またそれを解体しもする、そこに創造的狂気が宿っている。この悪魔は、ある種のオブセッションとして、小説家を執拗に追跡する。「そのままの姿であれ、変装した姿であれ、一目瞭然の場合もあれ、隠れている場合もあれ、〈悪魔〉が〈テーマ〉となって何度も繰り返し現れる」。彼によれば、小説家がテーマを選ぶのではなく、テーマが小説家を選ぶのだ。マルケスにとって、それは〈孤独〉だった。マルケスはリョサとの対談のなかで『百年の孤独』は十六歳のころに書きはじめ、完成するまでに長い年月と遠回りが必要だったと語っている。寄宿生活に馴染めなかったアラカタカの町での孤独の記憶は、『百年の孤独』としてタイトルにその悪魔を押し込めてしまうまで、祓うことができなかった。あるいはもっと卑近な例もあるだろう。上田岳弘『多頭獣の話』にもやはりまた、「塔」と「涙」のイメージがそれまでの作品と同様に、強迫的に反復されていたのだった。

自分の悪魔を選ぶことのできる者はいない。体験には様々あれ、現実を否定して別の現実と取り替えようなどという狂気の沙汰を人に促すのは、あまりに痛ましい体験だけだ。

同書、七二頁。

 古川日出男『小説のデーモンたち』の第三部は「デーモンスレイヤー」篇と題され、彼が「長さ」「言いたいこと」「準備」「無意識」「美文」「瞬発力」「甘言」「心のぶれ」「白紙」「外側を見る人」「結末」などの悪魔たちに立ち向かうドキュメントとなっている。しかし、たとえ彼が「丸消須ガルシャ」なる人物を主人公とした『おおきな森』というメガ・ノベルを書いていることを考慮に入れずとも、つぎのことは言いうるだろう。福島出身のその作家にとって、もっとも強大であったはずの〈悪魔〉こそは二〇一一年三月十一日に起こった「あまりに痛ましい体験」ではなかっただろうか。

 退勤後MとOに会って少し話をした。仕事以外の時間をどう過ごしているか、という話だ。大学では新学期がはじまって最初の金曜日だったから、学生の集団が多く街全体が浮き足立っていた。公園では眼球の部分の塗装が剝げたキリンの遊具が、なにかを問いかけるように曇り空へ首を伸ばしている。

 話したこと。僕たちは本を読んだり映画を観たり、それで労働とのバランスを保っている。しかし同時に、睡眠時間を削ってまでそれをするような、自己破壊へと向かう衝動も、少なからず感じながら生きている。まだ三週間しか経っていないというのが信じられないが、上記はあくまで予感の話だ。だがたとえばこの話は、つぎのようにまとめうるかもしれない。つまり、労働とバランスを取るための読書は、心身の安定を保つ意味合いも強いものの、結局のところ「労働力の再生産」へ漸近していってしまう。健康に働く「私」でいるために、本を読んで自分を癒す、それがとても重要だとつくづく感じるけれども、その反面、労働とまったく関係のないような領域(はたしてそれが存在するのかわからないが)を、生活のバランスを崩してまで求めようとしてしまう自分もいる。それが意識的であれ、無意識的であれ。

 ネコは人類の周辺で生活を営みはじめてから、攻撃性が減衰し、また顔さえもいわば「かわいく」なっていったらしい。理系の同期によると他の野生動物にも見られるこの現象のことを「自己家畜化」というみたいだが、ある研究には、日本人も「自己家畜化」をしてきているというものがあるという(もちろんこの説には多くの批判もある)。ふとした瞬間に、疲れた社会人の顔をしているよ、とMに言われてから気づいた。自己家畜化という主従関係の捩れは、まさにいま「社会人化」というかたちで進行してきている?

四月十九日(土)

 朝から汗ばむほどの陽気で、世界が春めいていた。

 昼まで布団でぼんやりし、それから吉祥寺へむかう。電車の人はまばらで、そこで金原ひとみ『YABUNONAKA』を読んでいた。いまのところ芥川の「藪の中」はあまり関係ない。文芸誌の元編集長の性加害を中心にして、八人くらいの登場人物がかわるがわる語る。扱われている題材の多くがXでよく見るようなものである分、語り手の変わるごとにそうした問題の見え方が変わって行く様子──まさに「藪の中」であるわけだ──を巧みに書き分けられていて、読んでいて面白い。だが読み進める燃料はあるあるネタみたいな、通俗的な部分だ。こういった小説は、SNSの文章を読んでいるような読み味から結局どういったところへと読者を連れていくのかが難しいところだと思う。終わらせ方に期待しつつ、読み進めている。

 土曜日の吉祥寺は平日の比にならないほどの人ごみだった。古書店や新刊書店をとびとびにめぐりつつ、たまに古着屋や雑貨屋を覗く。目当てだった『ケアと編集』がなく、ハン・ガンと島尾敏雄をいくつか買った。『回復する人間』が読みたい。『死の棘』も読み返したくて文庫版を買った。ハン・ガンを読みたいのは、Iがきのう話していたということもあるが、直接的には『群像』五月号で工藤庸子さんと蓮實重彦さんがその話をしていたからだった。そのあとYと合流し二、三時間ほど楽しく話す。硬いプリンを食べた。

 ふたたび「外すための予言」。アントニオ・タブッキに『他人(ひと)まかせの自伝 あとづけの詩学』と題した自伝があった。副題にある「あとづけの詩学」とはなにか。ごくまれに、書いたことが時を隔てて現実になってしまうことがある。たとえば僕はいまある意味で「遅れ」を体現しているような手遅れ的状況にあるが、そうした「遅れ」について核心をつく文章をすでに半年前に書いていたりした。「いちはやき遅れ」というタイトルで。よくできた偶然、というよりなにか祈りに近いものだ、それは。いつも書くことの隣にありつづけるそうした事態を指してオースターなどは「言葉は現実なんだ」(『オラクル・ナイト』)などと説明したりするが、タブッキは言う。

書くことは、ときどき、盲目なのだ。盲目であるがゆえに、信託の力がある。ただし、それは未来の「予測」ではない。過去において、われわれあるいは他人に起きたことに関する予測なのだ。

『他人まかせの自伝 あとづけの詩学』和田忠彦訳、岩波書店、一〇九頁。

 書いたことが現実になるのは、作家が未来を予言していたからではない。「あとで本当に起こる過去の予測」をしていたからだと、タブッキは言う。ある書評はこの時間の捩れを的確に要約していた。

あとで現実になる「過去の予測」の発見という時間のよじれを、作家は無意識のうちに体現して言葉に転換し、夢にそっくりな現実に育てていく。そこでは論理も文献も通用しないので、「起きてしまったことに何らかの意味をあたえようとする」には「悲壮な努力」を要する。どのように振る舞っても、「あとづけの詩学」は批評ではなく創作の言語行為に近づいてしまうのだ。

堀江敏幸『振り子で言葉を探るように』毎日新聞社、三〇一─三〇二頁。

 ふつうに考えて、これはきわめて秘教的とさえ言える言明だ。しかし、「あとで本当に起こる過去の予測」が的を射たもののように感じられてしまうのは、ひとえに書くことや読むことが「遅れ」を伴う行為であって、その意味でもけっして孤独な営みではないからだ。

作者にとって(そして読者にとってもだと思いますが)、本は、それが終わるところで終わっているのでは決してありません。本は、膨張を続ける小さな宇宙なのです。

『他人まかせの自伝 あとづけの詩学』一〇二頁。

四月二十一日(日)

 読むこと、書くことの根本的な無意味さについて、考える。

 僕たちがいずれ死にゆくこと、あるいはもっと手前の次元で、テクストと現実がなんらかのかたちで結びついていると信じつづけること、これがいまなお難しい問題であるのだとしたら、昨日の日記に書いた「予言」は、けっして荒唐無稽な話でもなくなってくる。

 というのは、文学にはなんの役割もない、と主張するマルケスでさえ、デーモニッシュな〈孤独〉にとらわれ、小説に対して既成の価値観を破壊するような役割を期待しているのだ。たしかに実感的なレベルで小説と社会・政治が地続きであると信じるのは難しい。いま、それはますます難しくなっている。だが、もっと根本的なレベルでそのあいだのつながりを信じることができなければ、そもそも書くことも、読むこともできないのではないか。文学において「あとで本当に起こる過去の予測」のようなものが存在してしまうのだとすれば、それはテクストと現実が時間的な捩れを通じてしかつながり得ないからなのではないか。

 というのはあまり論理的でもない予感的な話だが、このようなことを書きたくなったのは今日、北米のマルクス主義批評家フレドリック・ジェイムソンの主著、『政治的無意識』の読書会をしたからだった。早稲田のCafeGOTOで、前回から約一ヶ月ぶりの読書会だった。前の日記で引用したガルシア・マルケスとバルガス・リョサの対話で、マルケスはつぎのように言っている。「作家が真摯な態度で創作に臨んでいれば、「赤ずきんちゃん」の物語であれゲリラ戦の記録であれ──極端すぎる二つの例ですが──、何を書くにしても、その揺るぎないイデオロギー的立場が作品に反映されるものです」。ジェイムソンの主張もこの立場に近い。だがすこし違う。彼はどんなテキストであれ政治性と無関係ではなく、そこには「政治的無意識」が宿っていると言う。こうした考え方からマルクス主義的色彩が脱色され、いまの文化研究の基本的なモードとなっていることは言うまでもない。彼は、現実に対してそれを素手で触れることはできないと主張する。いわば彼はラカンやアルチュセールの思想にのっとり外的現実や歴史を〈現実界〉的なものに位置付け、それに接近するには「サブテクスト」(テクストの背景にある「コンテクスト」ではなく、テクストの下にあるもの)を介するしかない、だから作品分析が有効なのだ、と述べる。面白いのは、そうした立場に基づいてバルザック、ジョージ・ギッシング、コンラッドらの小説を論じたあとに一足飛びに構えられる結論だった。リクールに倣ってジェイムソンは、テクストに盛り込まれた意味を可能な限り復元するのを肯定的解釈、テクストを脱神秘化し、修辞的戦略を暴き、徹底的に疑うのを否定的解釈と規定し、マルクス主義のイデオロギー批評は後者の否定的解釈学だったと退ける。このイデオロギー分析は、文化的産物=作品を社会の道具(反映)としてしか見做せないことに限界がある。そのため、文化の独自性を正しく評価するような肯定的解釈学も必要だ。そこで着目されるのが、『希望の原理』のエルンスト・ブロッホやヴァルター・ベンヤミンといったいわば「亜流」のマルクス主義哲学者たちだった。とはいえ、ジェイムソンは作品のなかからイデオロギー的なものと、肯定的、つまりは未来のユートピアを志向するものを切り分け、後者だけを評価するような立場を拒絶するのだ。肯定的解釈学と否定的解釈学の弁証法が希求される。イデオロギーすなわちユートピアだという前提のもとに、作品の悪しきイデオロギー性を考慮して行われる解釈を、イデオロギー分析の限界を超える最良の解釈の方法であると、彼は主張するのだ。そこにある種の「集団性」が現出するという希望的予測には、いまだ腑に落ちないところもあるけれど。

◎今週読んでいた本

古川日出男『小説のデーモンたち』

上田岳弘『多頭獣の話』

『群像』2025年4月号

『新潮』2025年2月号

松家仁之『火山のふもとで』

──『沈むフランシス』

マリオ・バルガス・リョサ『ガルシア・マルケス論──ある神殺しの物語』

G.ガルシア・マルケス/M.バルガス・リョサ『疎外と反逆』

金原ひとみ『YABUNONAKA-ヤブノナカ-』

堀江敏幸『振り子で言葉を探るように』

アントニオ・タブッキ『他人まかせの自伝──あとづけの詩学』

フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識──社会的象徴行為としての物語』