数字に振り回されている
向けられてる銃口の数とか言う人いるけど、なんか、数字の割に誰もこっち向いてなくてがっかりしている。
フォロワー数が1500とか3000とかあっても、血が通ってる人間だと認識できるのは30くらい。あとは数字。あと、一年も話してないと数字に戻るのも嫌すぎる。友達が増えたと思ったのに、数字に戻っちゃった。嫌かどうかにも気づけてない可能性ある。
仲良い人が自分より数字が1桁2桁多くて、普段そんなの意識しないけど、ふとプロフィール見たとき敬語になっちゃいそうになって、これはかなり最悪です。でも、同じくらいの数字の人がいると頑張るぞという気になって楽しい。楽しいだけで最悪なことには変わりないんだけど。
500〜800くらいの頃、ちょうど無職をやっていて、世界と繋がるツールが絵しかなくて、頑張るぞと思っていた頃はなんだか楽しかった気がする。誰とも仲良くなくて、全員数字だった。仲良い人がいないから、誰かのために絵を描くこともなくて、だから好き勝手誰も喜ばなさそうなものでも描けたし、誰かが喜ぶ絵が描けないと仕事がなくて餓死するとも思っていたので、ずっとヒリヒリしていた。
無職で時間があったので、ましゅましゅをずっと見てた。ほぼ毎日見てたけど、ファンアートを描く気には一切ならなかった。
絵が伸びて、友達ができて、キャラクターのファンアートを描くようになって、ファンアートってオリジナリティの入れ方がとても難しいなって思った。最初は本当に何して良いかわからなかったので、いろんなことができた。カンブリア紀。
いまは、このくらいのことをするとこのくらいの人が喜ぶな、みたいなのがなんとなく想像できてしまって、多分全然当たらないんだろうけど、それでもなんだか息苦しい。
私が喜ぶものとみんなが喜ぶものを半分ずつにしたら、数字はしょぼしょぼ伸びて、なんとなく良い気分になるだけなって、私の創作は数字になってしまう。
私だけが喜ぶものを描くと、数字にならなくて済むし、あるいは小さい数字になってしまうだけか、それなりの数字になってただの数字になってしまう。
大切なものは、数字にしてしまうと勿体無いので、ファンアートなんて描くもんじゃない。自分の大切なものを削ってでもコンテンツの糧になろうとするよっぽど覚悟の決まった人以外はファンアートなんて描くんじゃない。
描けば描くほど、大好きだったはずのコンテンツは大喜利のお題になっていく。
私の中でましゅましゅだけがずっと綺麗なままだ。